『小倉百人一首』
あらかるた
【155】伊勢大輔と和泉式部
名門の娘
紫式部(五十七)からの無茶振りを受けて
即興で「いにしへの奈良の都の」と詠み、
華々しい歌人デビューを飾った伊勢大輔(いせのたいふ 六十一)。
大輔は大中臣頼基(おおなかとみのよりもと)に始まる
歌の家の流れを受け継いでおり、
百人一首歌人の能宣(よしのぶ 四十九)は祖父、
父輔親(すけちか)も優れた歌人でした。
頼基、能宣は三十六歌仙、輔親は中古三十六歌仙、
伊勢大輔は中古三十六歌仙と女房三十六歌仙に選ばれていますから、
大中臣家は四代にわたって名歌人を輩出していたことになります。
紫式部はその血筋を心得ていて力量をためしたのかもしれません。
→無茶振りについてはバックナンバー【12】をご覧ください。
新人女房は和泉式部
伊勢大輔が仕えたのは上東門院彰子(しょうし)、
つまり一条天皇の中宮(ちゅうぐう=天皇の妻)でした。
先輩女房には紫式部(五十七)や赤染衛門(五十九)がおり、
ほかにも当代きっての才女たちが集められていましたから、
その一員に迎えられた大輔はさぞ名誉なことと思ったでしょう。
女房の仕事に慣れ、歌人としても名をあげたころ、
数々の恋愛遍歴がうわさになっていた女性が出仕してきました。
和泉式部(五十六)です。
紫式部が和泉式部に批判的だったのはよく知られていますが、
伊勢大輔はちがっていました。
出仕した当日、大輔は和泉式部と夜通し語り明かします。
朝になって大輔が局(つぼね=自室)にもどると、
式部からこのような歌が贈られてきました。
思はむと思ひし人と思ひしに 思ひしかともおもほえしかな
仲良くなりたいと思える人だなと思っていましたが
(お会いしてみたら)思ったとおりの人だったと思えましたわ
伊勢大輔の返事は
君をわれおもはざりせば 我をきみ思はむとしも思はましやは
わたしこそあなたのことを考えていたのです そうでなければ
わたしがあなたのことを気にしているとはお気づきにならなかったのでは
「思ふ」が多くて混乱してしまいそうですが、
おたがいにその存在を気にしていたのですね。
伊勢大輔の家集『伊勢大輔集』には
歌を詠むためのふだんの心がけなどを互いに話したとあり、
上記の贈答歌は意気投合したことを示しているのでしょう。