『小倉百人一首』
あらかるた
【165】蹴鞠の名手鎌倉へ行く
名門の始祖
百人一首九十四番歌の参議雅経(さんぎまさつね)は
本名を藤原雅経といい、和歌と蹴鞠(けまり)の名家
飛鳥井家(あすかいけ)の祖とされる人物。
和歌を俊成(八十三)に学んで
『新古今和歌集』の編纂に加わるほどの歌人となり、
幼少から祖父頼輔(よりすけ)の特訓をうけた蹴鞠では、
飛鳥井流を確立して師範家となります。
将軍源頼家(みなもとのよりいえ)に蹴鞠の才能を買われて
鎌倉に向かったのは、おそらく二十歳のころ。
その後三代将軍実朝(さねとも 九十三)とは和歌を通じて親しくなり、
実朝と定家(九十七)の遠距離師弟関係の手助けもしています。
和歌史上重要な役割を担っていたことになりますね。
何度も京と鎌倉を往復していたためでしょうか、
雅経には旅の歌が多いようです。
白雲のいくへの峰を越えぬらむ 馴れぬあらしに袖をまかせて
(新古今和歌集 羇旅 藤原雅経)
白雲の立つ峰をいくつ越えたことだろう
慣れない山風に着物の袖をひるがえされながら
「あらし」は台風や突風のようなものではなく、単に強風、
あるいは山おろしなどの、平地より強く吹く風を指しています。
峰をいくつも越えたというのは、
何度も旅をしたという意味が込められているのかもしれません。
夢かうつつかうつの山
京にもどっていたときに後鳥羽院(九十九)から
名所の歌を求められ、雅経はこう詠んでいます。
ふみ分けしむかしは夢かうつの山 あとゝも見えぬつたの下道
(続古今和歌集 羇旅 参議雅経)
踏み分けて登ったあの日のことは夢だったのだろうか
宇津ノ谷峠の生い茂る蔦(つた)の下の道は昔のこととも思えないが
駿河(静岡県)の宇津ノ谷(うつのや)峠は東海道の難所のひとつ。
『伊勢物語』(前話参照)でも知られ、
旅人は昼なお暗き細い道を登ったと伝えられます。
その旅が後とも見えぬ(過去とも思えない)というのです。
「うつ」は夢の対義語である「現(うつつ)」を響かせています。
二百年ほど後の子孫、飛鳥井雅世(まさよ)は
この歌をふまえてこんな一首を遺しています。
昔だにむかしと言ひしうつの山 越えてぞしのぶつたのしたみち
(新続古今和歌集 羇旅 権中納言雅世)
昔の人(=雅経)でさえ昔のことと言った
その宇津ノ谷峠を越えて往時を偲ぶ蔦の下の道よ
雅世は室町時代の歌人で、
最後の勅撰集となった『新続古今和歌集』の撰者です。
それほどに飛鳥井家の権威が認められていたことがわかりますが、
さらに二百年後の飛鳥井雅庸(まさつね)は
家康の歌道師範となり『源氏物語』の奥義も伝授、
細川忠興(ただおき)らの大名に蹴鞠を教えていました。
初代の雅経から四百年経っても
名門でありつづけたのにはおどろかされます。