『小倉百人一首』
あらかるた
【136】国を傾ける美女
男装の麗人に萌えて
江戸時代末期、弘化4年(1847年)に出版された『列女百人一首』に、
亀菊(かめぎく)という女性の和歌が載せられています。
月影をさこそ明石の浦なれど 雲井の秋ぞなほも恋しき
(列女百人一首 48 亀菊)
明石の浦の月の光がどれほど明るいとしても
月を見ながら宮殿で過ごした秋がとても恋しく思われます
亀菊は後鳥羽上皇(九十九)の寵姫(ちょうき=愛妾)でした。
承久の乱(1221年)に敗れて隠岐に流された上皇に随い
18年後のその死まで仕えていたと伝えられるので、
この歌は配流(はいる)の途次、明石に寄港した際に詠まれたと
考えることができそうです。
実は亀菊は承久の乱の一因とされる人物。
職業は白拍子(しらびょうし)でした。
白拍子は平安時代の末頃から見られる芸能者で、
立烏帽子(たてえぼし)や水干(すいかん)で男装した女性が
今様(いまよう=流行歌)や和歌などを歌いながら舞うものです。
後鳥羽上皇はその亀菊を院中に住まわせて寵愛し、
摂津の長江、倉橋の荘園を与えて厚遇していました。
亀菊はこれらの荘園の地頭職(=管理者)を解任するよう
上皇に訴え、上皇がこれを鎌倉幕府に命じたところ幕府側は拒否。
これがきっかけで朝幕関係が悪化したといわれています。
遊女や美女を傾城(けいせい)、傾国(けいこく)と呼びますが、
亀菊はその名のとおりの影響力を発揮したようです。
白拍子を愛する有力者たち
民間人である白拍子がどうして上皇と出会うことができたのか、
不思議に思う人もあるかもしれませんが、天皇や上皇は行幸の際、
白拍子や遊女たちを呼んで宴会を催していたのです。
菅原道真の「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず」を思い出してみましょう。
これは宇多院の行幸に供奉(ぐぶ)した際に詠まれたものですが、
名所めぐりや狩りを楽しんだ一行は夜になると遊女たちを呼び、
酒盛りをして朝まで大騒ぎしていました。
後鳥羽上皇もこういった行幸で亀菊を見初めたのかもしれません。
白拍子というと源義経の愛妾だった静御前(しずかごぜん)が有名。
ほかに平清盛が愛した祇王(ぎおう)と仏(ほとけ)御前が知られます。
百人一首関連では入道前太政大臣(九十六)、
つまり西園寺公経(さいおんじきんつね)が
祇光(ぎこう)という白拍子を寵愛していました。
また後鳥羽上皇や藤原定家(九十七)らは
白拍子に今様の歌詞を提供しており、
公家や武家のあいだに白拍子が広く浸透していたことがうかがえます。
また有力者たちは白拍子の庇護者として経済的支援も行っており、
後鳥羽上皇の荘園贈与はその行き過ぎた例と言えるでしょう。
上皇が亀菊に与えた荘園は白拍子や遊女の多く住む
摂津の江口(現在の大阪市東淀川区東端あたり)の近くでした。
亀菊は江口の白拍子だったのかもしれません。