『小倉百人一首』
あらかるた
【137】西行と遊女
水上の遊女たち
前話に出てきた江口の遊女について、
「高砂の」の大江匡房(まさふさ 七十三)が詳細な記事を遺しています。
しかし匡房といえば当代随一の学者と呼ばれた人物のはず。
その繁栄ぶりは後世に伝えるに値すると考えたのか、
ただ単に遊女が好きだったのか…。
タイトルが『遊女記』なので疑いを持ってしまいますが、
900年ほど経った今、貴重な資料であることはまちがいありません。
江口は淀川と神崎川の分岐点にあり、
平安京から紀伊や山陽地方に向かう際の基点となっていました。
交通の要衝をおさえるため、早くから朝廷の所領が置かれていたようです。
交通の要衝だったということは大勢の男たちが行き交うわけで、
江口には多くの遊女が集い、客を奪いあっていました。
『遊女記』によれば
遊女たちは小舟で川を行く舟に近づいたのですが、
その数たるや水面が見えなくなるほどだったといいます。
客層は貴族、武家から庶民までと幅広く、
中には関白藤原道長の姿もあったとか。
当時の貴族の遺した日記からは住吉詣でや熊野詣での途次、
江口で遊ぶのがお決まりのコースだったことがうかがえます。
西行をやりこめた遊女
『遊女記』や日記類の記述から何人もの遊女の名がわかっていますが、
もっとも有名なのは妙(たえ)でしょう。
西行(八十六)との問答歌が『新古今和歌集』に採られているからです。
世の中を厭ふまでこそ難からめ かりのやどりを惜しむ君かな
(新古今集 羇旅 西行法師)
世を厭う(=俗世を避けて出家する)のはむずかしいでしょうが
(ずっとたやすい)一時の宿を貸すことさえあなたは惜しむのですね
世を厭ふ人とし聞けば かりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
(新古今集 羇旅 遊女妙)
(あなたは)出家した方だとうかがっておりますから
このようなはかない営みをする宿に
かかわろうとなさいますなと思っただけですわ
天王寺詣での際、江口でにわか雨に遭った西行は
雨宿りをさせてもらおうとして断られてしまいました。
宿を貸すくらい簡単なことではないかと恨み言を言ったところ、
出家者なのだから仮の宿に執着するなと返されたというのです。
ほんのひと時の宿というつもりの「かりのやどり」が
この世ははかない仮の宿に過ぎないという
仏教的な意味にすり替えられています。
西行の家集『山家集』には「遊女」とも「妙」とも書かれておらず、
『新古今』が「遊女妙」と記したのは大きな謎。
しかしこの女性はただ者ではあるまい、というので
謡曲『江口』はじめさまざまな芸能、文芸作品が生み出されて
現代にまで伝えられています。