『小倉百人一首』
あらかるた
【141】くさまくら
旅もさまざま
勅撰和歌集などでは旅の歌を羇旅歌(きりょか)と呼んでいます。
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ 七)の望郷の歌「天の原」は
『古今和歌集』の羇旅歌の巻にあるもの。
ほかに小野篁(おののたかむら 十一)、
菅原道真(二十四)の歌も同じ巻から採られていますが、
仲麻呂は海外赴任、篁は流罪、道真は行楽ですから、
旅の歌といってもさまざまなシチュエーションがあるわけです。
女房歌人伊勢(十九)は初瀬の観音に詣でた際に
このように詠んでいます。
草枕旅となりなば 山の辺に白雲ならぬ我やどゝらむ
(後撰和歌集 羇旅 伊勢)
草を枕にする(=旅寝をする)旅になったので
白雲ではないわたしも 山の辺に宿をとることにしましょう
地名の「やまのべ」を活かして、
わたしは白雲ではないけれど「山のあたり」に泊まりましょうと。
伊勢は京の都から泊まりがけで物詣(ものもうで)に出かけていたのですね。
ところで、街道や旅宿があまり整備されていなかった平安時代、
人々はどうやって宿を見つけたのでしょう。
紀貫之(三十五)の歌にこうあります。
くさまくら夕風寒くなりにけり 衣うつなる宿やからまし
(新古今和歌集 羇旅 紀貫之)
旅をしていて夕風が寒くなってきた
砧(きぬた)で衣(ころも)を打つような家に宿を借りよう
砧で布を叩いて艶を出すのは庶民の女性の仕事でした。
つまり貫之は、民家に泊まらせてもらおうというのです。
砧の音がしている家なら働き者の女性が住んでいて、
それなりのもてなしが期待できると考えたのかもしれません。
当時はごく普通の民家でも旅人を宿泊させていました。
寝場所を貸すだけでなく食事を提供することもあり、
旅人への当然の心遣いと考えられていたようです。
安易な旅立ちは禁物?
昔の旅が現在のように容易でなかったことは想像がつきます。
バスも電車もカーナビもコンビニもない、
もしかしたら追い剥ぎにねらわれるかもしれない旅。
旅人が親切にされた時代とはいえ、
旅支度は念入りにしなければならず、強い意志も必要だったでしょう。
しかしそんな中、藤原顕輔(あきすけ 七十九)は
草まくら袖のみ濡るゝ旅ごろも 思ひたちけむことぞくやしき
(新拾遺和歌集 羇旅 左京大夫顕輔)
旅の空に着物の袖が濡れて(=泣いて)ばかりいるよ
(旅をしようと)思い立ったことが悔やまれるなぁ
ホームシックになってしまったのか、すっかり後悔しています。
何がきっかけで旅に出たのか書いてありませんが、
衝動的な旅は昔も今も気をつけたほうがよいようですね。