読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【142】定家の月


月の歌人藤原定家

月の歌人と聞いてすぐ思い浮かぶのは
「月やはものを思はする」の西行(八十六)でしょうか。
しかし百人一首の撰者藤原定家(九十七)も、
じつは西行に負けず劣らずの月の歌人でした。

定家の月の歌は勅撰集に採られたものだけでも数十首。
内容が多彩なのも定家らしいところで、たとえば

松山とちぎりし人はつれなくて 袖越す浪にのこる月かげ
(新古今和歌集 恋 藤原定家朝臣)

松山と約束した人はわたしに冷たくて
袖を越えるほどの涙の波には月の光が宿っています

これは百人一首にある清原元輔(もとすけ 四十二)の本歌取りです。
「松山」は心変わりしないという約束を指しており、
「袖」はそのときふたりで涙を絞った着物の袖のこと。
その濡れた袖に今、悲しみを増すかのように月の光が落ちているのです。


余情を味わう定家の月

次に四季折々の月の歌を見てみましょう。
まず梅の芳香が漂ってくるような春の歌から。

おほぞらは梅のにほひにかすみつゝ くもりもはてぬ春の夜の月
(新古今和歌集 春 藤原定家朝臣)

大空は梅の香(と美しさ)に満たされてかすんでいる
春の夜の月もおぼろにくもったままでいるよ

夏の歌は梅雨の晴れ間の月をほととぎすになぞらえた一首。

さみだれの月はつれなきみ山より ひとりも出づるほとゝぎすかな
(新古今和歌集 夏 藤原定家朝臣)

五月雨に降られた月は 冷たい深山から(連れなしで)
ひとりで里に出てくるほととぎすのようなものだな

「つれなし」は冷淡なこと、よそよそしいこと。
それを「連れなし」に掛けて、ちらっと顔を見せただけの夏の月を
ひとりぼっちなのだなと擬人化しています。

秋の月川音澄みてあかす夜に をちかた人の誰を問ふらむ
(続後撰和歌集 秋 前中納言定家)

秋の月を眺め 澄んだ川の音を聴いて明かすこの夜に
遠くから来た人は誰のもとを訪れるのだろう

「をちかた」は遠方のこと。
夜明かしをするつもりで月を見ていたら
どこかから面会を乞う声が聞こえてきたようです。
それを遠方から来た人ととらえたことで、
定家は読み手の想像力をかきたてています。

月は冴え音は木の葉にならはせて しのびに過ぐる村時雨かな
(拾遺愚草上 冬)

月はくっきり冴えている 音は木の葉にまかせておいて
ひっそり通り過ぎていく村時雨(むらしぐれ)であることよ

「ならはす」はいつも通りにさせておくことですから、
雨は月と落ち葉の邪魔をしないよう、ほんの一瞬降っただけのようです。

文字には書かれていない言外の情趣、余情。
それは定家がもっとも大切にしていたものでした。
これらの月の歌からもその魅力を味わうことができます。