『小倉百人一首』
あらかるた
【144】春の初めの歌枕〔後〕
霞を織り出す春の女神
◆佐保姫(さほひめ)
佐保姫のうちたれ髪の玉柳 たゞ春風のけづるなりけり
(玉葉和歌集 春 前中納言匡房)
佐保姫の垂れ髪のように美しい柳の葉を
ひたすら春風がくしけずっているよ
大江匡房(おおえのまさふさ 七十三)の一首。
佐保姫(さほひめ)は春の女神の名前です。
もともと奈良の佐保山を神とみなしたもので、
春霞はこの女神が織り出すとされていました。
これに対し、紅葉を織り出す秋の女神が竜田姫です。
さほ姫の霞の袖もたれゆへに おぼろにやどる春の月かげ
(続古今和歌集 春 従二位家隆)
佐保姫の織った霞の袖に 春の月の光がおぼろげに宿っている
だれのせいで月が(涙で)にじんで見えるのだろう
藤原家隆(いえたか 九十八)は「たれゆへに」の一語で
朧月夜の光景に恋の思いをひそませました。
さすが定家が一目置いた歌人だけのことはありますね。
◆翁草(おきなぐさ)
春来てはみな若菜にぞなりにける 雪いたゞきしおきな草まで
(安嘉門院四条五百首 阿仏尼)
春が来て草は皆若々しくなったことだ
雪を頭に戴いていた翁草まで
翁草は金鳳花(きんぽうげ)の一種。
花の後に出てくる密集した白い綿毛が白髪のように見えるため、
老いを歎く歌によく登場します。
春の歌に使われた例は上記の阿仏尼(あぶつに)くらい。
『梁塵秘抄』の歌は単なる語呂合わせで、
実際は春の歌枕ではなかったのかもしれません。
花を見てゆけ
◆花を見捨てて帰る雁
春霞たつを見捨てゝゆく雁は 花なきさとに住みやならへる
(古今和歌集 春 伊勢)
春霞が立ってもうすぐ(桜の)花の季節になるというのに
その楽しみを見捨てて帰っていく雁は
花のない故郷に住み慣れているのだろうか
帰雁(きがん)の歌では
伊勢(十九)のこの一首が圧倒的に有名です。
影響された歌、真似した歌が山ほどありますが、
伊勢を超えるような作品はなかなか見当たりません。
そんな中、あえて挑戦した藤原定家(九十七)の一首は
花の色にひと春まけよかへる雁 ことし越路の空だのめして
(続拾遺和歌集 雑春 前中納言定家)
(桜の)花の色に免じてひと春譲らないか 帰る雁よ
今年は北へゆく道があてにならないことにして
「負けよ」は「譲歩せよ」ということ。
「越路(こしじ)」は古くは北陸道を指していましたが、
ここでは「北へゆく道」を意味します。
その道が今年は通れないかもしれないと考えて
桜を楽しんでいったらどうだと、雁に勧めているのです。
伊勢の名歌にユーモアで対抗した定家。
雁を帰らせない方法を考えついたところがユニークですね。