読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【97】スキャンダラスな母


国母となった舞姫

陽成院(十三)の母は、
二条の后と呼ばれ在原業平(十七)との駆け落ち伝説で知られる
藤原高子(ふじわらのたかいこ:842-910年)。
18歳のとき五節(ごせち)の舞姫をつとめて
従五位下に叙せられたと伝えられます。

高子はその後25歳で16歳の清和天皇の女御になり、
貞明(さだあきら)親王(=のちの陽成天皇)を産みます。
親王が9歳で即位すると高子は皇太夫人(こうたいぶにん)となって、
夫の清和上皇、兄の摂政基経(もとつね)とともに政治に関与。

しかし上皇が31歳で崩ずると兄妹の関係が悪化、
乱行奇行のつづく陽成天皇が在位8年で光孝天皇(十五)に譲位して
皇太后となった高子は二条院に移り住みます。
二条の后という通称はこのとき生まれたものでしょう。

高子はここでみずからの五十の賀(=長寿の祝い)を行っています。
招かれた藤原興風(三十四)が詠んだ屏風歌がこの一首。

いたづらにすぐる月日は思ほえで 花みてくらす春ぞすくなき
(古今集 賀 藤原興風)

いつもは無駄に月日を過ごしているというのに
花を見て暮らす春だけは月日の少なさを思うものだ

屏風には桜とその下で花見をする人々が描いてあったそうです。


和歌サロンを主宰した皇后

五十の賀から五年ほどして、高子に災難が降りかかります。
みずから建立した寺院の僧侶と密通したという嫌疑がかけられ、
皇太后の地位を剥奪されてしまったのです。

死後名誉は回復されますが、没するまでの十数年
失意の日々を送っていたのではと推測されます。

さて、陽成天皇が即位する前、
高子は自邸を和歌のサロンにして
素性法師(二十一)文屋康秀(二十二)在原業平らを招いていました。
百人一首に収められた業平の歌は、そのころに
竜田川の紅葉を描いた屏風を見て詠んだもの。

ちはやぶる神代もきかず龍田川 から紅に水くくるとは
(十七 在原業平朝臣)

不思議なことの多かった神の時代でさえ聞いたことがありません
龍田川が水を鮮やかな赤にくくり染めするなんて

この席には素性法師も召されていました。

もみぢばの流れてとまるみなとには 紅深き浪や立つらむ
(古今集 秋 素性法師)

散り落ちて流れていくもみじの葉が行き着く湊には
深い紅(くれない)の波が立つことでしょう

『伊勢物語』によれば、清和天皇に女御として入内する前、
高子は業平によって盗み出され、兄の基経らがそれを奪還しています。
業平の昇進が遅れたのはこの一件のせいともいわれますが、
創作に過ぎないと考えるのが正しいようです。