『小倉百人一首』
あらかるた
【100】百人一首のその前に
六十八人六十八首?
嘉禎(かてい)元年(1235年)、
息子の義父宇都宮頼綱(よりつな)に山荘の障子に貼る色紙和歌の
選定と執筆を依頼された藤原定家が、まず《百人秀歌》を選定、
それを改訂して現在伝わる《百人一首》を完成させた、
というのが百人一首誕生の(ほぼ)定説になっているようです。
短期間で100人の歌人とその代表歌を選んだようですが、
定家は以前から私的に勅撰和歌集のアンソロジーを
持っていた可能性があります。
源実朝(九十三)に贈った《近代秀歌》(1209年)は
歌論のほかに秀歌の例として68首の和歌を載せ、
そのうち18首が百人一首と同じもの。
作者に関してはさらに多くが百人一首と一致しています。
また《秀歌体大略》は63首をセレクトしていて、
19首が百人一首と同じです。
百人一首のもとになる秀歌データベースはすでに手元にあったのです。
百人一首選外の秀歌
室内装飾という特殊な用途のためでなく、
「100」という数も意識せずに選んだ63首、68首は、
純粋に定家の審美眼にかなった秀歌、
お気に入りセレクションだったと考えられます。
たとえばよみ人知らずは
百人の歌人から一首ずつという趣旨に合わないため、
百人一首からは除外されました。
さくらがり雨はふりきぬ おなじくはぬるとも花のかげにかくれむ
(拾遺集 春 よみ人知らず)
桜を求めて野山を歩いていたら雨が降ってきたよ
同じことなら濡れてでも花の陰にかくれよう
雨宿りする場所がなかったようですが、
どのみち濡れるのだから、できれば桜の下で雨に打たれたいと。
「桜狩り」は桜の枝を折ることではなく、桜を求め歩くことをいいます。
なきわたるかりの涙やおちつらむ 物思ふやどの萩のうへのつゆ
(古今集 秋 よみ人知らず)
鳴いて飛んでゆく雁の涙が落ちたのだろうよ
思いにふける我が家の萩の上におく露は
庭の萩の葉に降りた夜露は、物思いに沈む自分の心のせいか
鳴きながら飛んでいく雁の群れが落とした涙に思えてしまう。
下の句の字余りが効果的に余韻を残します。
和泉式部(五十六)は「あらざらむ」よりも
この歌がお気に入りだったようです。
もろともに苔の下にはくちずして うづもれぬ名を見るぞかなしき
(金葉集 雑 和泉式部)
あなたと一緒に葬られることもなく
生きてあなたの埋もれることのない名を見るのが悲しい
和泉式部は娘の小式部内侍(六十)に先立たれました。しかし、
娘が出仕していた上東門院から生前と同じように衣が贈られてきて、
そこには「小式部内侍」の名が記してあったのです。
悲痛さのにじむ印象深い一首ですが
装飾という用途には悲しすぎたのでしょう、選外となっています。
ほかに素性法師(二十一)や在原行平(十六)も
百人一首とはちがう歌が選ばれています。