『小倉百人一首』
あらかるた
【104】十三番目の月
今年は長い春だから
伊勢(十九)は平安前期を代表する女性歌人。
『古今和歌集』に22首、『後撰和歌集』には69首が採られていて、
ともに女性としては最多の入集。三十六歌仙のひとりでもあります。
その伊勢が、こういう不思議な春の歌を詠んでいます。
さくら花春くはゝれる年だにも 人の心にあかれやはせぬ
(古今集 春 伊勢)
桜の花よ 春が加わった年でさえも
人の心に飽きられるほど咲くことはないのね
詞書に「やよひにうるふ月ありける年よみける」とあるのは、
この年(おそらく延喜四年:904年)に
三月が二回あったことを示しています。
加わった月を閏月(うるうづき)と呼びます。
今年は閏三月が加わって春が長いのだから、
その分長く咲いていてもいいじゃないの、というのです。
これより前、清和天皇の貞観八年(866年)に
応天門炎上事件が起こったのも閏三月のこと。
この年も三月が二回ありました。
つまりこれらの年は一年が13か月あったわけですが、
旧暦では暦と太陽の運行とのずれを修正するために、
頻繁に閏月を設けなければなりませんでした。
織姫彦星二度目の逢引き
月の満ち欠けの周期29.5日をもとに作られていた旧暦は
一年が354日となるので、太陽を基準にした一年の365.25日とは
毎年11日以上のずれを生じることになり、
三年ではひと月分以上ずれてしまいます。
そこで閏月(=13番目の月)を置いて調節を図ったのですが、
十三月という呼び方はせず、いずれかの月を繰り返すことにしました。
閏月を置くのは十九年に七回、何月を閏月とするかは
季節の目安である二十四節気を基準に決めていたそうです。
この暦は正しくは太陰太陽暦と呼ばれます。
和歌にもどりましょう。
紀貫之(三十五)は閏月のある年にこのような歌を詠み、
申文(もうしぶみ=任官申請書)に添えて左大臣家に遣わしています。
あまりさへありてゆくべき年だにも 春にかならずあふよしもがな
(後撰集 春 紀貫之)
日数にあまりがあって過ぎてゆく今年だというのに
春に必ず会う(=官職を得る)手だてはないものでしょうか
毎年行われる司召し(=官職任命の行事)は
貫之たち下級貴族の一大関心事でした。
昇進も任命もなければ、また1年、空しく待たなければなりません。
閏月のある年は30日も余計に待たされることになります。
最後はユーモラスな歌を一首。
契りありておなじ文月の数そはゞ 今宵もわたせ天の川舟
(続千載集 夏 前中納言定房)
契りを交わしたあの七月と同じ七月が二度あるなら
今夜も渡すがよい天の川舟を
文月(ふづき)の数が増える、つまり閏七月のある年だったのですね。
それなら七夕も二度やって閏月の七日にも織姫に逢いに行けと、
この歌は彦星に勧めているわけです。
二人は年に一度しか逢えないはずなのですが…。