『小倉百人一首』
あらかるた
【106】異端児から歌壇の権威へ〔前〕
病弱な熱血歌人
身体によいと聞くと何でも試さずにはいられないくらいの
健康オタクだったと伝えられる藤原定家(1162-1241)、
もし現代に生きていたら、通販やネットショッピングにハマっていたかも。
咳を一つしても日記に書きとめるほど神経質だったそうですが、
定家は14歳と16歳のとき感染症に罹っていて、
二度とも生死の境をさまよう重症だったのです。
成人してからも定家は呼吸器疾患と神経症に悩まされつづけ、
精力的な活動歴からは想像もつかないほど病弱な歌人でした。
しかし病弱ゆえの感性の鋭さでしょうか、19歳の春、
定家は月光に照らされた梅の花を見て、異様な興奮にとらわれます。
本人によれば、このとき「妖艶の美」を感得したのです。
この体験を活かしたという最初の歌集が《二見浦百首》。
西行の求めに応じて、伊勢神宮に奉納するために書かれたものです。
「三夕」として有名な「見わたせば花も紅葉もなかりけり」は
この百首中の「秋廿歌」に含まれています。
問題作とされ、のちのちまでさまざまな解釈が試みられてきた歌ですが、
《二見浦百首》そのものが革新的な歌集でした。
残念ながら定家の打ち出した新しい歌風は当初世に容れられず、
一流歌人として認められるには至りませんでした。
歌の名門の息子は、ヘンな歌を詠む異端児でしかなかったのです。
※「三夕」はバックナンバー81「秋の夕暮れベスト3」をご覧ください。
恩人は後鳥羽院
定家を苦境から救ったのは若き後鳥羽院(九十九)でした。
院が定家を宮廷歌壇の首位に抜擢すると、
世の歌詠みは次々と定家風の革新的歌風になびいていきました。
定家は異端から一転して中心人物になったわけです。
たゞいまの野原をおのがものと見て 心づよくもかへる秋かな
(二見浦百首 秋)
今ここにある野原を自分のものと確認して
未練もなく秋は帰っていくものだなぁ
擬人法はめずらしくないものの、
秋が秋の野原を見て、自分の作品として満足しているわけですから、
前代未聞というか空前絶後というか…。
後鳥羽院は優れた歌人でした。
そこに弱冠二十歳の柔軟な感性も手伝って
定家の革新をすんなり受け容れられたのだと考えることができます。