読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【111】哀しみの貴公子


亡き父をしのんで

『今昔物語集』巻第二十四に
「藤原道信朝臣 父を送りて和歌を読みし語」という記事があります。

今は昔、左近中将に藤原道信という人がいた。
法性寺の為光大臣(=太政大臣藤原為光)の子である。
一条天皇の時代の殿上人である。
姿かたちから振る舞い、気だてにいたるまで素晴らしく
和歌を詠むのにとくに優れていた。

今で言うなら総理大臣の息子で、
見た目も性格も和歌の才能も抜群だったというのです。

ちやほやされて何不自由なく暮らしていた道信ですが、
まだ若いうちに父親が亡くなってしまい、
嘆き悲しむうちに一年が過ぎました。

あはれは尽きせぬものなれども 限りあれば服脱ぐとて
道信の中将かくなむ詠みける

限りあればけふ脱ぎ捨てつ藤衣 はてなきものは涙なりけり

喪があけるので藤衣(喪服の異名)は脱ぐけれど
悲しみの涙が尽きることはないと、悲痛な思いが詠われています。
道信は兄弟の中でもとくに穏やかな性格だったといわれ、
かわいがられていたのでしょう。


花よりはかない人のいのち

『今昔物語集』はつづいてこんなエピソードを紹介しています。

多くの人々とともに殿上していたとき
世の中のはかないものの話題になった。
道信の中将は「牽牛子(けにごし)の花を見る」という心を
このように歌に詠んだ

朝顔をなにはかなしと思ひけむ 人をも花はさこそ見るらめ

朝顔をなぜはかないと思っていたのだろう
花は人間こそはかないと見ているだろうに

牽牛子は朝顔の異名です。
朝に咲いて夕暮れにはしぼんでしまう朝顔が
人間をはかないものと思って見ているだろうというのです。

この歌が長く愛されてきたのは、
道信がわずか23歳で急逝してしまったせいもあるでしょう。

青年道信が死を予感していたかどうかは確かめようがありませんが、
当時の死生観の一端を示しているのは確かです。
そして斬新な発想による下の句が印象深いため、
多くの人にとって忘れがたい一首となったのでしょう。

『大鏡』は「いみじき和歌の上手」の死は
多くの人々に惜しまれたと記しています。