『小倉百人一首』
あらかるた
【112】呼び捨ての歌人たち〔前〕
五位鷺の由来
地方によると思いますが、夕方になると水田や川の浅瀬などに
ゴイサギの姿を見かけることがあります。
この鳥の名を漢字で表記すると「五位鷺」となり、
貴族だというのがわかります。
貴族の位を与えたのは醍醐天皇でした。
天皇がこの鷺を捕らえさせようとしたところ
逃げるそぶりもなく素直に捕らえられたというので、
勅命に従った殊勝な鳥であると褒めたたえ、五位の位を授けたというのです。
醍醐天皇は壬生忠岑(みぶのただみね 三十)や紀貫之(三十五)らに
『古今和歌集』編纂を命じた天皇です。
時代が下って清少納言(六十二)の頃の
一条天皇の飼い猫にも五位が与えられていました。
『枕草子』に「かうぶりにて命婦(みょうぶ)のおとどとて」とあるので、
雌猫で呼び名は「命婦さま」といい、
従五位下を賜った女官とみなされていたようです。
叙爵(じょしゃく)によって従五位下を授けられると
清涼殿(天皇の座所)への昇殿が許されます。
五位は正五位上、正五位下、従五位上、従五位下の四段階があり、
従五位下は一番下の位です。
鳥や猫に位を授けるのはもちろん戯れにすぎません。
人間のほうは三十階もある位階を上っていくのは容易でなく、
貴族でない者は六位以上には進めませんでした。
一生猫以下ですが、当時は学歴も実力も通用しない
家柄とコネがものを言う社会だったのです。
※位についてはバックナンバー「位階を気にする平安貴族」をご覧ください。
歌人としての副収入
百人一首の歌人を一覧にしてみたところ、
二割が役職も尊称もつかない、いわば呼び捨て状態で表記されていました。
生没年がわからなかったり職歴や最終官位の不明な人が多いのは
かれらの身分が低かったからで、記録がないのだそうです。
貫之は従四位下まで上っていますが、
文屋康秀(二十二)や大江千里(二十三)、壬生忠岑は
六位だったことがわかっており、
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 二十九)もおそらく六位。
ふつうなら昇殿もかなわない下級官人です。
しかしかれらは優れた歌詠みだったため、
宮中の歌会、歌合に召されたり、
天皇や上皇の行幸に随伴したりできました。
その時だけの特別待遇ですが、猫と肩を並べることができたのです。
そして、官人としての収入は少なかったにしても、
かれらは召されるたびに朝廷から報奨を賜っていました。
上級貴族の邸宅に招かれて屏風歌を詠んだりもしていますから、
高価な褒美を頻繁に手に入れていたと考えられます。
躬恒らは『古今和歌集』の撰者に抜擢された際も
それなりの報奨を得たことでしょう。
これらの報奨は原則として現物支給。
高級な布や衣類が与えられたため、
市に持って行って売れば容易に現金収入になったと思われます。
この時代に歌人という職業はなかったわけですが、
躬恒ほどの売れっ子になると歌が収入に結びついていたのです。