『小倉百人一首』
あらかるた
【113】呼び捨ての歌人たち〔後〕
歌人を随伴する理由
宇多法皇の大堰川行幸(ぎょうこう/みゆき)に随伴を命ぜられた
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 二十九)が、
このような歌を詠んでいます。
〈詞書〉
法皇にし川におはしましたりける日
さる山のかひにさけぶといふことを
題にてうたよませたまうける
わびしらにましらなゝきそ あしひきの山のかひあるけふにやはあらぬ
(古今集 誹諧 みつね)
わびしさに猿(ましら)よ 哭(な)いてはならぬ
山に峡(かい)があるように 今日は行幸に出逢うという
甲斐ある(幸運な)日ではないか
詞書によって、法皇から「猿、山の峡に叫ぶ」という題が出され、
躬恒が即興で詠んだものとわかります。
語呂合わせが面白く『古今和歌集』では「誹諧歌」に分類されていますが、
内容は行幸歌の伝統をきちんと踏まえています。
「行幸」や「御幸」という文字が使われるように、
天皇や上皇、法皇の外出は赴いた場所に幸をもたらすとされていました。
行幸に随う歌人は、目的地に着くとその土地の神に天皇の到着を告げ、
天皇の威光によって幸がもたらされるであろうと宣言します。
躬恒の歌には猿が出てきますが、
猿は山の神の手代(てしろ=代理)もしくは神の化身ですから、
この歌も神に語りかけているわけです。
『万葉集』を見ると、柿本人麻呂(三)や山部赤人(四)が
行幸に随伴して行く先々で歌を詠んでいたことがわかります。
またアイルランド神話によれば
王の遠征には必ず詩人が同行し、
新しい土地に着くたびに土地の神に詩を捧げていました。
神との融和を図るにせよ支配を宣言するにせよ、
その手続きに歌や詩が用いられた点では共通しています。
宴席の詩歌管弦スタッフとして
歌人は貴族たちの私的な宴席に呼ばれることもありました。
これも躬恒の例ですが、
〈詞書〉
延喜の御時 殿上のをのこどものなかに召しあげられて
をの/\かざしさしける次(ついで)に
かざせども老いもかくれぬこの春ぞ 花のおもてはふせつべらなる
(後撰集 春 凡河内躬恒)
挿頭(かざし)の花を髪に挿しても
老いたしるしの白髪が隠せなくなった今年の春でございます
花のように美しい顔は伏せたままがよろしいでしょうね
花や木の枝を髪、もしくは冠に挿すのを「かざし」といいます。
殿上人たちが(おそらく桜の花の)かざしを挿して歌会をしていた席に
躬恒が召しあげられて(=呼び出されて)、
おまえもかざしを挿せと言われたのでしょう。
自分の顏を「花の顔」と詠ったウケ狙いのこの歌は
座を和ませるための躬恒の機転と考えられます。
貴族の宴席では詩歌管弦が代表的な遊びでした。
躬恒は楽師たちと同じように、座を盛り上げるための要員として
不可欠な存在だったのです。