『小倉百人一首』
あらかるた
【115】ともだちたちの歌
ともだちは単数か複数か
最近「ともだちたち」という言葉を使う人が多くなったそうです。
複数の友人をこのように言うのですが、
日本語としておかしいのではないかと疑問をもつ人も少なからず。
たしかに漢字で書くと「友達達」となってしまい、
不自然な感じがします。それに、
「達」という字が複数をあらわしているなら、
さらに「達」を付け加える必要はないようにも思えます。
では「ともだち」は単数なのか複数なのか、さかのぼって調べてみると、
江戸時代の『雅言集覧(がげんしゅうらん)』という古語辞典に
こう記されていました。
【ともだち】朋友。きんだちの「たち」に同じく
ひとりの友をも「友だち」といふべし
きんだち(公達/君達)は上流貴族の子弟のことで
「きみたち」が変化して「きんだち」になったもの。
これが一人の人物についても使われるのだから、
一人の友人を「ともだち」と言ってもよいというのです。
単数でも複数でもかまわないわけです。
百人一首にある紫式部の歌は友人との別れを詠ったもの。
友人は一人でした。
〔詞書〕
早くより童(わらわ)ともだちに侍りける人の年ごろ経て行きあひたる
ほのかにて七月十日ごろ月にきほひて帰り侍りければ
〔歌〕
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな
(五十七 紫式部)
幼いころからずっと友だちだった人に
何年か経って出会ったところ、わずかな時間会えただけで
七月十日くらいに月と競うように帰ってしまったので
久しぶりにめぐり逢って その人かどうかも見分けられないうちに
雲隠れした夜半(よわ)の月のように あなたは去ってしまったことね
昔もあったともだちたち
『雅言集覧』は石川雅望(まさもち)の手になるもので、
おもに平安文学で使われた言葉を集め、いろは順に配列。
数々の古典から引かれた用例が多数載せられているため、
現代の古語辞典も参考にしているほどです。
その『雅言集覧』に「ともだちども」という項目があり、
『伊勢物語』の第十一段が引かれていました。
原文はこういうものです。
むかしおとこ あづまへ行きけるに
友だちどもにみちよりいひおこせける
忘るなよほどは雲ゐになりぬとも 空行く月のめぐり逢ふまで
ある男が東国へ下る途中、友人たちに手紙をよこしました。
あなたたちとの距離は雲を隔てるほど遠くなったけれど
空を行く月に再び巡り逢えるように
あなたたちともまた逢えることでしょう。
それまで忘れないでいてくださいねと。
この場合の「友だちども」は「ともだちたち」と同じかもしれません。
「友だち」を単数とみなして「ども」を付けたと考えられるからです。
平安前期にも現代と同じような言い方があったとは、
おもしろいですね。