『小倉百人一首』
あらかるた
【119】歌人ヨシツネ
世襲政治家の家系
後京極摂政太政大臣(ごきょうごくせっしょうだいじょうだいじん)という
いかめしい呼び名の藤原良経(よしつね 九十一)は
摂政・関白を歴任した九条兼実(くじょうかねざね)の息子。
兼実は摂政・関白太政大臣藤原忠通(ただみち 七十六)の息子で
大僧正慈円(じえん 九十五)の兄。
忠通の父藤原忠実(ただざね)も摂政・関白。
さらにその父藤原師通(もろみち)も関白で…。
きりがないのでやめておきますが、
こんなふうに代々摂政・関白を出す家を摂関家(せっかんけ)といいます。
良経が摂政に任ぜられた建仁二年(1202年)、
土御門(つちみかど)天皇は八歳と幼く、
後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)が院政を敷いていました。
朝廷の実権を握っていたのは天皇の外祖父(母方の祖父)で
後鳥羽院の別当(=政所の長官)だった源通親(みちちか)です。
この通親こそ、鎌倉幕府寄りだった良経の父、兼実を失脚させた人物。
陰の関白とまでいわれていたそうですから、
良経の摂政太政大臣という肩書きはもはや名ばかり。
叔父の慈円が『愚管抄(ぐかんしょう)』に
摂関家の人々は「人の形をしているだけ」と記したように、
その影響力はすっかり低下していたのです。
和歌に活きた才能
かつての栄華は望むべくもない時代、
良経がその才能を存分に発揮できたのは和歌の世界でした。
良経は俊成(八十三)に和歌を学び、
歌壇を主宰して定家(九十七)たち若手歌人を庇護、育成。
後鳥羽院のもとで『新古今集』編纂にもかかわり、
仮名序の執筆を任されたほか、巻頭歌作者にもなっています。
勅撰入集は300首を超え、大歌人と呼んでさしつかえないでしょう。
後鳥羽院は三十八歳で急逝した良経を惜しみ、その和歌は
ベストスリーを選ぶのが困難なほど秀歌ぞろいだと述べています。
後鳥羽院の見解は現在に至るまで支持されています。
百人一首に採られた「きりぎりす」は
本歌取りの例としてはお手本になるほど見事ですが、
代表作というほどではないというのが通説です。
ここではあえて『千載和歌集』を見てみましょう。
良経の少年時代の作品が採られており、
早熟な才能をうかがうことができるからです。
冴ゆる夜の真木の板屋の独り寝に 心くだけと霰ふるなり
(千載集 冬 左近中将良経)
冷え込む夜に板葺きの粗末な家にひとり寝ていると
心に砕けよ(思い悩め)というかのようにあられが降ってくるよ
「閑居して霰を聞く」という渋い題で詠まれたもの。
どこかかわいらしく感じてしまうのは
少年の作品だと知っているからでしょうか。
※良経の歌「きりぎりす」については
バックナンバー「本歌取りのマナー」をご覧ください。