読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【74】平安純愛物語〔後〕


再会の春

久しぶりに訪れた家では、梅の枝にうぐいすが鳴いていました。
少女はすっかりおとなになっていて、さらに美しくなったように思えます。
そのそばにかわいらしい女の子がいて、だれかと尋ねてみると
あの一夜の契りで生まれた娘でした。

家の主は宮道弥益(みやじのいやます)という
大領(だいりょう=郡の長官)。
ずいぶん身分がちがいますが、これも前世の契りと思い、
高藤は母娘を自邸に引きとります。

女の子は胤子(たねこ/いんし)と名づけられました。
夫婦には定國(さだくに)と定方の男子二人も生まれ、
高藤のせつない初恋は幸福な家庭として実を結びます。

高藤はその後昇進を重ねて大納言になり、
胤子は宇多天皇の女御となって敦仁親王を生みます。
のちの醍醐天皇です。よく知られているように
最初の勅撰和歌集『古今和歌集』を編纂させたのが醍醐天皇。
高藤の孫は和歌の歴史に欠かせない人物となったわけです。

さて、天皇の外祖父となった高藤は内大臣にまで昇り、
天皇の叔父にあたる定方も右大臣になります。
一族の栄華は頂点に達しました。

醍醐天皇15歳のとき、弥益の邸に勧修寺が創建されました。
醍醐天皇の勅願だったとも胤子の本願だったともいわれますが、
天皇はこの地に特別な思い入れがあったらしく、
自身の陵(みささぎ=天皇の墓)も山科に設けています。


和歌隆盛を支えた定方

百人一首には『古今和歌集』から22首が選ばれています。
定家は10冊の勅撰和歌集からセレクトしていますが、採用数22首は最多。
好みもあったかもしれませんが、現存する21の勅撰和歌集のうち
『古今』が最重要歌集であることにかわりはありません。

定方はその撰者である紀貫之(三十五)らを援護していたと伝えられます。
百人一首歌人では中納言藤原兼輔(二十七)が従弟(いとこ)、
中納言朝忠(四十四)が息子ですから、
定方は和歌とは切っても切れない存在だったということができます。

あらためて定方の歌を読んでみましょう。

名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな
(二十五 三条右大臣)

逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名前ならば
蔓をたぐって秘かにあなたのもとを訪れたいものだ

人目を忍ぶ恋を詠った情熱的な一首。
父高藤の純愛物語を、息子の定方は知っていたでしょうか。