読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【76】崇徳院の最後


乱世の始まり

保元の乱に敗れた崇徳院(七十七)は讃岐に配流の身となりました。
もとより源義朝や平清盛らの率いる軍勢が多数集結していた
後白河天皇側が圧倒的に優勢であり、
挙兵の準備も終えていないところに夜襲を受けた崇徳側に
まったく勝ち目はなかったのです。

平清盛の妻時子(ときこ)の叔父にあたる
平信範(1112-1187)の日記『兵範記(へいはんき)』を見ると、
保元元年7月11日の件(くだり)にはこのように記されています。

鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等
軍兵すべて六百余騎白河に発向す
この間主上御輿を召し、東三条殿に遷幸す

鶏鳴(けいめい=一番鶏が鳴くころ)に
清盛たちの軍は崇徳たちの拠点白河殿に向けて進軍を始めていました。
優勢とはいえ、主上(しゅじょう=天皇)は
万が一の難を避けるため東三条殿に移っていたようです。

主上御願を立て、臣下祈念す
辰の剋、東方に煙炎起つ
御方の軍すでに責め寄せ火を懸け了んぬと云々

辰の刻、今の時刻でいうと朝8時くらいには白河殿が炎上し、
大勢は決していたようです。『兵範記』はこのあと
「上皇、左府(頼長)行方知れず」と記していますが、
頼長は流れ矢にあたって命を落とし、崇徳は仁和寺に身を隠していました。

その後捕らえられて讃岐に流され、幽閉の憂き身に遭った崇徳院が
何を考え、どのように暮らしていたのか、よくわかっていません。
世を恨んで怨霊となり、天下を傾けようとしたという噂が立てられたのは
院の没後に天変地異や騒乱がつづいたため。

しかしその噂によって、朝廷は崇徳院という諡号を贈ることにしたのです。
治承元年(1177)7月、没後13年が経とうとしていました。


後世を願う崇徳院

『山家集』によると、西行は讃岐松山の崇徳院のもとに
たびたび手紙や歌を贈っていました。
といっても直接贈ることはできなかったのか、院の女房宛てに。

女房からの返しにはこのような歌が含まれていました。

目のまへにかはりはてにし世のうきに 涙を君もながしけるかな

(流されて)見る間に変わり果ててしまったこの世のつらさを感じて
院も涙を流していらっしゃることでございます

松山の涙は海に深くなりて はちすの池に入れよとぞ思ふ

讃岐松山で流す涙は海のように深くなりました
その涙を天国の蓮の池に流し入れて
心静かにありたい(往生したい)と思っております。

女房の歌が崇徳院の心情を代弁しているとは言いきれませんが、
晩年の院が仏道修行に余念がなかったという言い伝えは、
鬼になった、大天狗になったという話よりは信じてよさそうです。