『小倉百人一首』
あらかるた
【77】崇徳院をしのぶ西行
乱世に消えた才能を惜しむ
西行(八十六)は崇徳院の和歌の才能を高く評価していました。
保元の乱による院の失脚、崩御に衝撃を受けた西行は
友人の寂然(じゃくねん)法師のもとに、このような歌を贈ります。
ことの葉のなさけたえぬるをりふしに ありあふ身こそかなしかりけれ
世が乱れ 和歌の情趣の失われてしまう時代に
行きあってしまったわが身を悲しく思っています
寂然からはこういう返しがありました。
しきしまや絶ぬる道になく/\も 君とのみこそ跡をしのばめ
絶えてしまった歌の道のその跡を
せめてあなたとともに泣く泣くしのびましょう
「敷島の道」は和歌の道、歌道を指します。
崇徳院は罪人として讃岐に流されたので公然と追悼はできません。
ひそかにあなたとだけその功績を偲びましょうというのです。
崇徳院と西行の対決
上記は『今昔物語集』の記事ですが、
前話で紹介した『山家集』でも、
西行が崇徳院に哀惜の思いを寄せつづけていたことがわかります。
しかし時代が下って『雨月物語』では
西行と崇徳院の関係が一変しています。
歌枕を訪ねる旅の途中、
西行は讃岐真尾坂にしばらく滞在していました。
ほど近い白峯というところに新院(=崇徳院)の墓があると知り、
お参りしようと山に登ってみると
予想さえしなかった粗末な墓がすっかり草に埋れています。
かつての帝のあまりに無惨な姿。
哀れに思った西行は、供養のため経文を読みます。
そこに崇徳院の亡霊が現われて詣でてくれたことに礼を言うのですが、
西行は出てくるとはなにごとかと崇徳院を諌めます。
現世に姿を現わすのは未練や迷いがある証拠、
速やかに成仏なさいませと。
しかし「新院呵々(からから)と笑はせ給ひ」
お前は知るまいが、平治の乱を起こしたのはわたしだ。
見ているがよい、そのうち天下に大乱を起こしてみせよう。
崇徳院はすっかり復讐の鬼と化していました。この後、
思いとどまらせようとする西行と崇徳院の問答がつづきます。
上田秋成は『山家集』や『保元物語』など
いくつもの古典から物語を構成しています。
背景にあるのは崇徳院に同情を寄せる共通感情。
祟りはもちろん恐ろしいのですが、敗者に向けるまなざしのやさしさは
日本人特有のものかもしれません。