『小倉百人一首』
あらかるた
【78】本質をとらえよ
示された題を詠む
決められた題にしたがって詩歌を作るのを題詠(だいえい)といいます。
漢詩や和歌の世界では平安時代に一般化し、
四季の風物や恋、旅や別離などの題が出されて、
歌会や歌合(うたあわせ)が盛んに行われていました。
たとえば春・夏・秋・冬・恋の歌をそれぞれ10首ずつ書け、
というふうに指示が出ます。
そして春の部には「立春」「うぐいす」などさらに具体的な題があり、
歌人たちはそれにしたがって歌を作ったのです。
題は単純なものばかりではありませんでした。
次の源兼昌(かねまさ)の歌は「関路千鳥」の題で詠まれたもので、
「関路」と「千鳥」の二つを詠み込んでいます。
淡路島かよふ千鳥の鳴くこゑに いく夜ねざめぬ須磨の関守
(七十八 源兼昌)
淡路島から通ってくる千鳥の鳴き声で
幾夜目を覚ましたことだろうか 須磨の関の番人は
古くは在原行平(十六)が「藻塩たれつゝ」と詠い、
光源氏ゆかりの地でもある須磨を舞台に選んで寂しさを演出し、
哀しげに鳴くとされる千鳥に関路をかよわせ、
さらに関守という孤独な地方役人を配することで、
兼昌は情緒ゆたかな傑作を生み出しています。
歌の質を落さないために
ここで比較のために、平重時(しげとき)が
同じ「関路千鳥」の題で詠んだものを見てみましょう。
清見潟関の戸たゝく浦風に 明方かけてなく千鳥かな
(玉葉集 冬 平重時朝臣)
清見潟(きよみがた)を望む関所の戸をたたくように浦風が吹き
浜では明方になるまで千鳥が鳴いているよ
舞台は駿河湾の名勝清見ヶ関(きよみがせき)です。
そこに浜からの風が激しく吹きつけ、おびえているのか
千鳥の声が一晩中聞こえるというのです。
うまく二つの要素がつながっていますが、
兼昌と比べてしまうと、何かもの足りない気がします。
歌のできばえは本意(ほい)が活かされているかどうかにかかっています。
本意というのはそのものがそなえている性質、本来の姿のこと。
秋の夕暮れは寂しいもの、恋はつらく切ないもの、というような、
本質をとらえた歌こそが望ましいと考えられていました。
兼昌の歌は千鳥の本意である悲哀、憂愁と
関路の本意である孤独、寂寥を余すところなく表現しています。
題詠は同じ題で競い合うために生まれたもの。そして
本意は競い合うなかでものごとの本質を無視した、
ウケねらいの歌が生まれるのを防ぐために考えられたものでした。
これらが伝統として受け継がれ、
和歌独特の美意識が形づくられていったのです。