『小倉百人一首』
あらかるた
【79】ライバルは道真
本歌は漢詩だった?
大江千里(おおえのちさと)の「月見れば」の歌は
『古今和歌集』から採られたもので、
その詞書には「是定のみこの家の歌合によめる」とあります。
これは「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」を指し、
光孝天皇(十五)の子、宇多天皇が企画したものでした。
宇多天皇はほかに
「寛平后宮歌合(かんぴょうのきさいのみやのうたあわせ)」も催し、
勅撰和歌集を試行していました。
最初の勅撰和歌集『古今和歌集』は醍醐天皇の詔によりますが、
父親の宇多天皇がすでに準備を進めていたのです。
月見れば千々にものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど
(二十三 大江千里)
月を見ているとあれこれと悲しい思いが湧いてくる
秋はわたしのところだけに来るわけではないのだが
『古今和歌集』を研究していた江戸時代の学者契沖(1640-1701)は、
この歌が白楽天の詩を翻案したものだと指摘しています。
原作と考えられるのはこの作品です。
満窓(まんそう)の明月 満簾(まんれん)の霜
冷ややかに灯残して 臥床(がしょう)を払う
燕子楼中(えんしろうちゅう) 霜月の夜
秋来(しゅうらい) ただ一人の為に長し
窓は月あかりに満ち、すだれは霜に満ちている
冷えて灯火は細り、寝床を払い清めて横になる
燕子楼の中で過ごす霜降る月夜
秋が来たが、独りのわが身には長く感じられる
千里の意地
『古今和歌集』成立の10年ほど前、
千里は宇多天皇の命によって『句題和歌』という歌集を作っています。
漢詩の詩句を題にして和歌を作ったという意味です。
漢詩にくらべて和歌の地位が低かった時代、
漢詩を手本にすることで質のよい和歌が作れないかという、
実験や訓練の意味合いがあったと考えられます。
じつは『句題和歌』に先立って、菅原道真(二十四)が
同じ趣向の『新撰万葉集』を天皇に献上していました。
天才学者の後を受けた千里が重圧を感じないはずがありません。
大江氏と菅原氏はもと同族の土師(はじ)氏でした。
そしてともに文章道(もんじょうどう)の家柄です。
文章生(もんじょうしょう)の学ぶ学校(文章院)も
両氏が分担管理していましたから、同業のライバルといえます。
道真には負けられないという思いは強かったでしょう。
実際、千里は勅命を受けてから睡眠不足になり、
完成まで体調不良が治らなかったと述懐しています。
「月見れば」も『句題和歌』と同じ手法で作られており、
漢詩の換骨奪胎という千里の「得意技」を披露したもの。
しかも和歌として完成度が高く、
日本人の感性に沿う作品に仕上がっています。
千里が後の歌人たちに大きな影響を及ぼしたのは言うまでもありません。