『小倉百人一首』
あらかるた
【81】秋の夕暮れベスト3
意外に新しい秋の夕暮れ
清少納言も「秋は夕暮」と書いていたように、
秋の情趣は夕暮れこそ深まるものとされていました。
といっても『万葉集』にも『古今和歌集』にも用例は見あたらず、
『後拾遺和歌集』の良暹(りょうぜん)あたりが最古の部類のようです。
さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮
(七十 良暹法師)
寂しいので庵を出てあたりを眺めてみたけれど
どこも同じような(寂しい)秋の夕暮れなのだったよ
秋の夕暮れが多く詠われるようになるのは『新古今和歌集』から。
中でも百人一首歌人三名の作品が
「三夕(さんせき)」と呼ばれて有名です。
夕暮れ三兄弟
三夕の歌は秋歌の部に並んで掲載されています。
さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮
(新古今集 秋 寂連法師)
寂しさを感じさせるのはどの色というものではなかったな
真木(=杉や桧)の立つ山の秋の夕暮れを見て気づいたよ
心なき身にもあはれは知られけり しぎたつ澤の秋の夕ぐれ
(新古今集 秋 西行法師)
世を捨てたこの身にも情緒は感じられるものだ
鴫(しぎ)の飛び立つ川の秋の夕暮れには
見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ
(新古今集 秋 藤原定家朝臣)
見わたしてみると春の花も秋の紅葉もないのだった
海辺の苫屋(とまや=漁師の小屋)の秋の夕暮れは
夕暮れ三兄弟、と言いたいくらい印象が似ています。
どれも三句が「けり」で終わり、結句が体言止めになっているからです。
歌のリズムが同じなのですね。
しかし内容はそれぞれ個性的です。
寂連(じゃくれん 八十七)は秋らしい色のない常緑樹の山を見て
秋の夕暮れの寂しさを感じています。
紅葉でもなく葉の落ちた灰色でもない緑の風景に秋を感じるのは
人間の心の寂しさのゆえだと、寂連は気づいたのでしょう。
西行(八十六)は僧侶ですから、
喜怒哀楽の感情とは無縁の日々を送る身のはず。
それでも秋の夕暮れにはしみじみと感慨にふけってしまうというのです。
定家(九十七)は25歳の頃の《二見浦百首》に含まれる一首。
花も紅葉もない無彩色の世界から秋の情趣を引き出して、
おのれの心の風景を見ているかのように感じられます。
時は中世。
風景の美しさをそのまま詠っていたのがそれまでの和歌だとすれば、
心のフィルタを通して風景を詠む
新しい和歌が誕生していたのです。