読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【86】能因歌枕


歌枕は地名のことではなかった?

百人一首には地名を詠み込んだ歌が30首以上あり、
それらの地名は歌枕(うたまくら)と呼ばれています。
そんなことから〈歌枕=地名〉というイメージが強いと思いますが、
昔は意味がちがっていたそうです。

もともと和歌に用いる言葉、歌詞(うたことば=歌語)を歌枕といい、
それらを記した書物も歌枕と呼んでいたらしいのです。

『源氏物語』の「玉鬘」では光源氏の言葉のなかに
こんなふうに「歌枕」という言葉がでてきます。

よろづの草子、歌枕よく案内知り見つくして
そのうちの詞(ことば)をとりいづるに…
(源氏物語 玉鬘)

さまざまな書物や歌語の本をよく理解して
すべて見たうえでその中の言葉を取り出しても…

ここでは歌語の解説書といった意味で使われており、
紫式部(五十七)の時代にはまだ
〈歌枕=地名〉という限定はなかったようです。

能因(六十九)の著書『能因歌枕』もその一例。
「ひさかたとは そらをいふ也」といった枕詞の説明や
「かはづとは かへるをいふ」といった
単なる語句説明も数多く載せられています。

歌枕が地名に限定されるのは『五代集歌枕』が書かれた
平安時代末期なってからのようです。


能因の貴重な記録

『能因歌枕』は分類整理された書ではありません。
構成も校正も不十分。備忘録か心得帖のようなものなので、
著者の意図を想像しながら少しばかり紹介してみます。

まず、語句説明のように見えて
その言葉の使用を勧めているらしきもの。

天地 あめつちといふ
さゝがにとは くもを云ふ

和歌では「天地(てんち)」といわず「あめつち」と言え、
「蜘蛛」の代わりに「ささがに」を使えというのでしょう。

次に用法のガイド。

潦とは(中略) はかなき世にたとふ
螢とは おもひかくれぬ物にたとふ
空蝉とは むなしきものにたとふ

潦(にわたずみ=急な雨でできた水たまりの泡)ははかない世に、
ほたるは隠しきれない思いにたとえるのがよいと。
空蝉(うつせみ)については言うまでもないでしょう。

そして歌にふさわしい地名。

関をよまば あふさかの関 白河の関 ふわの関などよむべし
河をよまば 吉野河 たつたかは おほゐがはなどよむべし
野をよまば さが野 かたの みやぎ野 春日野などよむべし

このあたりが一般的にいわれる歌枕ですね。
逢坂の関、白河の関、不破の関は実際に多くの歌に詠まれています。
能因の百人一首所収歌「嵐吹く」に
竜田川が出てくるのはご存知のとおりです。

能因は先人たちの例にならって書いているので、
本書がすべて能因の自説というわけではありません。
しかし、平安時代中期にどのような言葉が歌語として認められ、
どのような意図で用いられていたかの記録として貴重です。

かつては多くの歌人が多かれ少なかれ
このようなことを意識しながら歌作にはげんでいたのですね。