『小倉百人一首』
あらかるた
【91】いじめに耐える名歌人
平安いじられキャラ?
百人一首の作者紹介で
必ず「変人」と書かれてしまうのが曾禰好忠(そねのよしただ)。
実際に変人エピソードがいくつか伝わっているのですが、
本人の名誉のためにも真に受けないほうがよさそうです。
好忠は六位の官人でした。
六位以下は通常昇殿が許されず、地下(じげ)と呼ばれます。
役職は地方官の丹後掾(たんごのじょう)で、
掾は守(かみ=長官)、介(すけ=次官)に次ぐ三番目の官職。
重要な役職ですが、殿上人(てんじょうびと)から見れば
身分の低い、取るに足らない卑官でした。
平安時代は殿上人と地下との格差が広がった時期でもあり、
名前と役職から一文字ずつ採った「曾丹(そたん)」というあだ名は
貴族たちの蔑視の産物といわれています。
和歌の才によって貴族たちと接する機会が多かった好忠、
好き放題にいじられて、たびたび悔しい思いをしていたようです。
よく知られているのは、呼ばれもしない席にのこのこ出かけていき、
つまみ出されて悪態をついたという話。
しかしその場にいた某人物の日記には
好忠は正式に招待されていたという記述があるそうです。
ということは、好忠をいじめて楽しもうというたくらみがあって、
かれはまんまと乗せられてしまった、という推測も成り立ちます。
死後の栄光
百人一首に採られたのは好忠の代表作の一つ。
由良の戸をわたる舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな
(四十六 曾禰好忠)
由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が楫(かじ)をなくしてさまようように
わたしの恋のなりゆきもどのようになるかわからないよ
古くは『万葉集』の恋の歌に笠金村(かさのかなむら)の
「舟梶(ふねかじ)をなみ」の用例がありますが、
恋の不安を楫を失った舟に例えたのは好忠の新発想でした。
この歌が示すように
類型的な和歌表現をくつがえす清新な作風が特徴だったのですが、
好忠が同時代の歌人たちに影響を及ぼすことはありませんでした。
しかし好忠の勅撰入集歌は94首。
没後に編纂された『拾遺集』はじめいくつもの勅撰集に入集しています。
また100年ほど後の源俊頼(みなもとのとしより 七十四)は
「由良の戸を」を本歌取りして好忠へのリスペクトを表明、
好忠にならった斬新な歌風を確立しました。
軽んぜられた男は死後ようやく、影響力ある歌人になっていったのです。