『小倉百人一首』
あらかるた
【96】定めなき世のためし
知らぬ間に無常の歌に?
遍昭(へんじょう 十二)の「乙女の姿しばしとゞめむ」は
百人一首の中でもとくに人気のある一首のようです。
しかしもっとも有名な歌、 後世に大きな影響を及ぼした歌は次の一首でしょう。
すゑの露もとの雫や 世の中のをくれさきだつためしなるらむ
(新古今集 哀傷 僧正遍昭)
「末の露」は草の葉先に結ぶ露、
「もとの雫(しずく)」は葉の元に着く水滴を指します。
どちらが先に落ちるか、蒸発して消えるか、だれもわかりません。
そのようすはわたしたち人間の
人に先立たれたり自分が先に死んだりする
定めなき世の中の例(ためし)なのだろうと。
この歌は藤原公任(五十五)の『和漢朗詠集』に採り上げられるなど、
早くから人々に親しまれ、和歌ばかりでなく
さまざまな文学作品に引用されて広まりました。
遍昭は世のはかなさを思って詠んだと記していますが、
公任はこの歌を「無常」の部立に分類しており、
いつしか無常の歌の代表格とみなされるようになっていきます。
理屈では抑えられない悲しみ
遍昭の歌に歌人たちはどう反応したのでしょうか。
すゑの露もとの雫をひとつぞと 思ひはてゝも袖はぬれけり
(続拾遺集 釈教 九条良経)
末の露も本の雫もいずれ消えるのだから同じこと
そう思い至ったものの 涙で袖が濡れるのだったよ
葉末の露や浅茅の元の雫のはかなさを思ってはみたが
秋の村雨(むらさめ=にわか雨)に打たれるのは
わたしひとりなのだ
藤原家隆(九十八)の「雨中無常」の歌です。
死んでいく順番をあれこれ悲しんでもしょうがない、
死は気まぐれにわたしひとりに訪れるものではないかと。
家隆は突然のにわか雨を見て、そう気づいたようです。
無常とは、すべてのものは生滅流転をくり返していて
永遠なものは何もないという考えかた。
永遠なものはないと知ることによって執着や迷いを断ち、
心おだやかに生きましょうというのです。
しかし無情と読みが同じだからか、
昔から無常の歌には悲しげなものが多いようです。
理屈では分かっていても、という
良経の歌のような嘆きこそ一般的な心情だったのでしょう。