読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【54】息子の名前で出ています


息子は著名人

花ちゃんのママ、翔くんのおかあさん、
というふうに、子どもの名前で呼ばれる母親がいるそうです。
ママ友といわれる交友関係では
実名で呼び合わないというのですが…。

百人一首にも誰それの母と書かれている女性がいます。
右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)と
儀同三司母(ぎどうさんしのはは)です。

嘆きつつひとりぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
(五十三 右大将道綱母)

来ないあなたを待ちながら 嘆きのうちに独りで寝る夜の明けるまでが
どんなに長くつらいものか ご存じなのでしょうか

作者は藤原兼家(929-990)の夫人で、のちに右大将となる道綱の母。
「藤原道綱母」と表記されることもあります。
古典好きには『蜻蛉(かげろう)日記』の作者として有名ですね。

この歌はよその女のもとに通う兼家を閉め出してしまった作者が、
翌朝しおれた菊にそえて贈ったもの。
『蜻蛉(かげろう)日記』には夫の浮気に悩む妻の気持がつづられています。

忘れじの行末まではかたければ けふを限りの命ともがな
(五十四 儀同三司母)

忘れないというその言葉も将来まではわからないもの
約束をした今日限りの命であってほしいものです

この歌はのちに夫となる藤原道隆(953-995)に贈ったとされるもの。
道隆は兼家の息子で、父親に負けず劣らずの浮気ものだったとか。
信じたい一心でこの歌を詠んだ作者を、
どんな結婚生活が待ち受けていたのでしょう。


ぎどうさんしって何?

儀同三司母は高階貴子(たかしなのきし/たかこ)が本名。
高内侍(こうのないし)という女房名で円融院に仕え、
漢詩の書ける才女として知られていました。

一条天皇の妃定子(ていし)の母親でもあり、
清少納言は『枕草子』で貴子ファミリーを
何度か話題にしています。

儀同三司とは見慣れない言葉ですが、
これは息子伊周(これちか)の通称です。

道隆は晩年に関白を息子の伊周に譲ろうとしますが、果たせずに死去。
道隆の弟道長が実権を握ると、内大臣だった伊周は政争に破れ、
太宰権帥(ださいのごんのそち)として九州に追いやられます。
いかめしい名前の官職ですが、名ばかりの次官です。

翌年赦されて京にもどったものの、
すでに大臣の席は埋まっていて入り込む余地がありません。
そこでしかたなく、大臣の下であるが大納言よりは上であるという
微妙な地位が与えられることに。

伊周はこの待遇をみずから儀同三司と呼びました。
三司は左大臣、右大臣、内大臣を指し、
儀同は同じ待遇であることを示します。
「大臣みたいなもの」と自称していたわけです。

収入も大臣なみが保証されたのかも知れません。
それにしても、名ばかりの名誉回復で暇を持て余す息子を、
母貴子はどんな思いで見ていたのでしょう。