読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【55】入道という生き方


入道は道に入った人

百人一首では藤原忠通と藤原公経が
「入道(にゅうどう)」と記されています。
入道とはどういう人をいうのでしょう。

「道に入る」というのは仏道に入ることを意味し、
髪を剃って仏弟子となり、僧の姿に変わった人を指します。

平安時代には皇族や貴族で仏門に入った人を入道と呼び、
とくに皇族の場合は入道の宮などと呼んでいました。

花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり
(九十六 入道前太政大臣)

嵐が花を散らして 庭に雪が降ったかのように白くしているけれど
頭髪が白くなって老いていくのはわが身のことなのだったな

太政大臣という、政権トップの座にいた
藤原公経(きんつね:1171-1244)の作。
公経は晩年に京都北山に西園寺を造営して移り住み、
西園寺殿と呼ばれていました。

入道は必ずしも出家する必要はなく、在俗(ざいぞく)のままで、
姿だけ僧形となって生活する人もありました。
平清盛などがその好例です。


仏門に入る親王たち

法性寺入道(忠通 七十六)についてはすでに書きましたから、
百人一首歌人に関係のある、ほかの入道たちの和歌を見てみましょう。
まず右大将道綱母(五十三)の夫、藤原兼家から。

わが恋は春の山辺につけてしを もえ出でて君が目にもみえなむ
(後拾遺集 恋 入道摂政)

わたしの恋の火を春の山辺につけておいたから
草木が萌えるように燃える思いはあなたの目にも見えるだろう

相手がだれなのかわかりませんが、
「こひ」と「火」、「萌え」と「燃え」を掛けた
情熱的な恋の歌になっています。

兼家は晩年に太政大臣、摂政を辞して出家し、
大入道殿、法興院殿などと呼ばれていました。

さ夜ふけてきぬたの音ぞたゆむなる 月を見つゝや衣うつらむ
(千載集 秋 仁和寺入道法親王覚性)

夜が更けてきて砧(きぬた)の音が弱くなってきた
おそらくこの美しい月を見ながら衣を打っているのだろう

砧は麻や絹の布を槌で打ってつやを出すこと。
どこかから聞えてくる槌の音が弱く乱れがちなのを
自分と同じく月に見とれているのだろうと考えたのですね。

仁和寺入道法親王覚性(にんなじのにゅうどうほっしんのうかくしょう)は
鳥羽天皇の第五皇子で崇徳院(七十七)の弟にあたります。
しかし父の退位後の誕生ということもあり、
わずか7歳で仁和寺に入ります。

法親王(ほっしんのう)は仏門に入った親王という意味。
覚性はのちに仁和寺の寺主となり、大僧正にまで昇っています。

忘れじな又こむ春をまつの戸に あけくれなれし花の面影
(新勅撰集 春 入道二品親王道助)

忘れないようにしよう また来る春を待ちながら
朝に夕に見なれた花の姿を

道助(どうじょ)法親王は後鳥羽院(九十九)の第二皇子で、
6歳で仁和寺に入り11歳で出家、のちに仁和寺御室になっています。

皇太子となる望みのない親王は姓を賜って臣籍に降るほかに、
入道の宮として身分にふさわしい待遇を受ける道が開かれていました。
仁和寺など門跡(もんぜき)と呼ばれる寺院は
その受け皿となっていたのです。