『小倉百人一首』
あらかるた
【61】心は闇にあらねども
曽孫(ひまご)は紫式部
藤原兼輔(かねすけ:877-933年)は紫式部の曽祖父。
当時は歌人としてたいへん高名でした。
鴨川のほとりの兼輔の邸宅には躬恒(二十九)や貫之(三十五)など
歌壇の中心人物が集い、サロンのようだったと伝えられます。
百人一首に採られた兼輔の歌はこの一首。
みかの原わきて流るゝ泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ
(二十七 中納言兼輔)
甕(みか)の原を分けて流れるいづみ川よ
(その名のように)いつ見たからといってあの人が恋しいのだろう
みかの原は、埋められたみか(甕・瓶)から
水が湧き出して川になっているという伝承があるそうです。
その川の名「泉川」に「いつみき」を掛けた恋の歌。
ちなみに泉川は現在の木津川のことだとか。
しかし当時、兼輔のもっとも知られた作品といえば、
『後撰和歌集』にあるこの一首だったようです。
人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな
(後撰集 雑 兼輔朝臣)
子を持つ親の心は闇というわけではないが
子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものですな
これは醍醐天皇の更衣となった娘の身を案じての
親心の歌だといわれています。
源氏物語に最多引用
紫式部は『源氏物語』でたびたび曽祖父の歌を引用しています。
「人の親の」は引用回数26回に及び、
引用の宝庫といわれる『源氏』の中でも最多出。
第一帖「桐壺」だけでも
娘を失った更衣の母を「闇にくれて伏し沈み」と書き、
命婦(みょうぶ)に応える更衣の母の言葉の中に
「くれまどふ心の闇も」「わりなき心の闇になむ」と
つごう3回も使っています。
歌を丸々引用するのではなく、言葉をちょっと使うだけで
歌の心(意味するところ)を引用しているのです。
『後撰和歌集』に載るこの歌には長い詞書があります。それによると、
藤原忠平(ただひら=貞信公 二十六)が左大将だったとき
相撲の還饗(かえりあるじ)を催し、そこに招かれた兼輔が詠んだもの。
還饗というのは、宮中の相撲(すまい)の節会(せちえ)のあと、
勝ったほうの大将が配下の者たちを集めて行うもの。
祝勝会とでもいったところでしょうか。
宴会が終わって高貴な人が数人残り、
主も客人もすっかり酔いがまわったところで話題は子供のことに。
そこで酔ったいきおいで詠んだ歌だというのです。
それが後世にまで残り、曽孫が物語中に引用することになるとは
本人も予想していなかったことでしょう。