『小倉百人一首』
あらかるた
【63】命がけの修行のさなかに
僧侶が主治医?
大僧正行尊(ぎょうそん:1057-1135年)は護持僧(ごじそう)でした。
護持僧は内裏の清涼殿に控えていて、祈祷によって天皇を守るのが役目。
行尊は白河、鳥羽、崇徳の三天皇に仕え、
鳥羽天皇の皇后璋子(しょうし/たまこ)の病を治すなどの実績をあげて
尊い聖(ひじり)として世に知られていました。
お坊さんが病気を治すなんて意外かも知れませんが、
病気は悪霊のしわざと考えられていた平安時代、
皇族や貴族は霊験あらたかな高僧に悪霊を追い出してもらって
病気を治そうとしたのです。
『源氏物語』では光源氏が「わらはやみ(熱病の一種?)」の
治療のために北山の行者を訪れています(若紫)。
しかし天皇ともなると容易に外出はできないため、
高僧を内裏に常駐させていました。
行尊のころは一人だったようですが次第に人数が増え、
鎌倉時代には6人になっていたとか。
これは交替で昼夜を分かたず祈祷をつづけるためでした。
天皇や皇后の病気だけでなく、皇族のお産、旱魃(かんばつ)や洪水、
流行病などのさまざま危難に対処するため、
何日もかけて祈祷をすることがあったのです。
命がけの修行
行尊の百人一首所収歌は『金葉和歌集』から採られたもの。
詞書には大峰で思いがけず桜の花を見て詠んだとあります。
もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし
(六十六 大僧正行尊)
山桜よ おまえもわたしを懐かしんでくれ
おまえのほかにわたしの心を知る人はいないのだから
行尊は大峰(奈良県南部)の回峰行(かいほうぎょう)の途中で
目の前にあらわれた美しい桜の姿に打たれ、呼びかけたのです。
回峰行は食べ物も水も口にせず山中をめぐり、
一日ごとにその距離を増していくという修行。
足を滑らせたら命がない急峻な崖を走り、
目もくらむ深い谷をのぞき、礼拝を繰り返します。
入りしより雪さへ深き山路かな 跡たづぬべき人も無き身に
(続後撰集 雑 前大僧正行尊)
山に入ってからずっと雪の深い道がつづくことよ
人の足跡をたどることもできないとは つらい身ではないか
これは冬の大峰で詠んだもの。
行尊は17歳から大峰や熊野の霊山で苦行し
若くして験力(げんりき)を得たといいます。
その後行尊は園城寺(おんじょうじ=三井寺)の長吏(ちょうり)、
四天王寺別当などを経て大僧正となり、
延暦寺僧徒に焼かれた園城寺金堂を再建、
覚鑁(かくばん)の高野山大伝法院建立を援助するなど、
仏教界に大きく貢献しています。
没後の行尊は修験道の一派から先達(せんだつ)として讃えられています。
先達は修験道の指導者を指す言葉ですが、
偉大な先輩といった意味合いでも使われます。
定家はすごい人を百人一首に入れたものです。