『小倉百人一首』
あらかるた
【68】大江ファミリーの逸材
高砂は松か桜か
大江匡房(おおえのまさふさ:1041-1111年)は代々続く学者の家系。
大江匡衡(まさひら)・赤染衛門(あかぞめえもん 五十九)夫妻からは
曽孫(ひまご)にあたります。
百人一首に採られた歌は『後拾遺和歌集』にあり、
詞書によれば内大臣藤原師通(もろみち)の邸で酒宴があったとき
「遥かに山の桜を望む」という題で詠まれたもの。
高砂の尾の上のさくら咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ
(七十三 権中納言匡房)
あの山の峰の桜が咲いたなぁ
里の山の霞は立たないでほしいものだ
桜が見えなくならないように、
霞に立つなと呼びかけるわかりやすい一首です。
高砂はもともと砂(いさご)が高くなったところ、砂丘などを指します。
それが和歌の世界ではいつしか山をも高砂と呼ぶようになったので、
この場合の高砂は山をあらわす普通名詞です。
それに対し藤原興風(三十四)の高砂は地名(歌枕)なので、
桜でなく松が出てくるのがお約束。ちょっと混同しやすいですね。
ひいおばあさんからの贈り物
匡房誕生の頃、赤染衛門はまだ元気だったらしく、
曽孫のために産衣(うぶきぬ)を縫わせて贈っています。
そのとき一緒に贈ったのが、次の予祝(よしゅく)の和歌。
願いがかなうように前もって祝う内容です。
雲のうへにのぼらむまでも見てしがな つるの毛ごろも年ふとならば
(後拾遺集 賀 赤染衛門)
(曽孫が)雲上人になるまで見届けたいものです
白い産衣を着る曽孫は年を経たらきっとそうなることでしょう
雲上人(くものうへびと)は雲客(うんかく)ともいい、
殿上人(てんじょうびと)を指します。
宮中で天皇の側近く仕えるほどに出世するだろうというのですね。
鶴の毛衣(けごろも)は鶴の羽毛を衣に見立てた呼び名で、
鶴は長寿の象徴ですから、とてもめでたい言葉といえます。
さて、その匡房はわずか8歳で『史記』『漢書』を読みこなし、
11歳で漢詩を作ったという神童でした。
父親の成衡(しげひら)が大学頭(だいがくのかみ)、
母親は文章(もんじょう)博士橘孝親(たちばなのたかちか)の娘。
血筋がよいのはもちろんですが、家庭環境もよかったのでしょう。
曽祖母の願いどおり、匡房は異例の昇進をつづけ
後冷泉、後三条、白河、堀河、鳥羽の5代の天皇に仕えます。
天皇の講師である侍読(じどく)や
皇太子に学問を教える東宮学士も務め、
当代随一の学者として名を馳せる一方で政治家としても活躍。
歌人としても勅撰集に約120首に及ぶ作品を採られています。
赤染衛門の歌は予祝効果抜群だったわけです。