『小倉百人一首』
あらかるた
【69】清盛の父
武家の地位を高めた実力者
「瀬を早み」の崇徳院(七十七)の歌壇に
平清盛の父、忠盛(ただもり:1096-1153)が
名を連ねていたのをご存知でしょうか。
『平家物語』には忠盛の歌が鳥羽院を感動させたという逸話が載り、
次の一首が紹介されています。
有明の月もあかしのうら風に 浪ばかりこそよるとみえしか
(金葉集 秋 平忠盛朝臣)
有明の月も明石の浦では地名のままに明るくて夜とも見えず
浦を吹く風に波だけが寄せていくのが見えましたよ
忠盛は桓武(かんむ)平氏の流れを汲む伊勢平氏。
『平家物語』に「其の先祖を尋ぬれば桓武天皇第五の皇子
一品式部卿(いっぽんしきぶきょう)葛原(かずらはら)親王」とあり、
由緒ある家柄の出身でした。
忠盛は武士として白河院に仕えて功績を挙げ、
わずか18歳で従五位下に叙されると、
その後は受領(ずりょう=国司)として伯耆守、越前守、
備前守、尾張守などを歴任して富を築いていきます。
白河院の没後は鳥羽上皇の近臣として活躍。
山陽、南海の海賊追討に尽力する中で西国に平氏の基礎を固め、
さらに日宋貿易にも関わって巨万の富を蓄え、
それまでの武士階級では考えられなかったほどの実力者となります。
忠盛は武力と財力だけでなく貴族的教養も身につけ、
宮廷内に平氏の存在感を増していきます。
しかし貴族たちからは、武士が貴族社会に入り込んできたこと、
財力にものをいわせた華美な振舞いなどが疎まれ、
宮廷に不穏な緊張感がただようことに。
このあたりの事情は大河ドラマにも描かれていましたね。
忠盛の心の歌
勅撰和歌集に採られた忠盛の歌をみてみましょう。
心情を吐露したものを二首。
殿上申しけるに許されざりければよめる
おもひきや 雲ゐの月をよそにみて心の闇にまどふべしとは
(金葉集 雑 平忠盛朝臣)
予想したでしょうか
殿上人をよそに見て悔しさに思い乱れることになろうとは
忠盛は36歳のころようやく昇殿を許されています。
功績をかさねてもなかなか殿上人の仲間入りできなかった
無念さのにじむ一首です。
またも来む秋をまつべき七夕の わかるゝだにもいかゞかなしき
(玉葉集 雑 平忠盛朝臣)
七夕の星はふたたび逢える秋を待つことができますが
その七夕の日に永遠の別れを迎えたのがいかにも悲しく思えます
白河院は大治4年(1129年)7月に崩御しました。
来年の7月になっても、七夕の星のようにまた逢うことはできない。
恩人の死を惜しむ気持が伝わる歌ですね。