『小倉百人一首』
あらかるた
【27】愛の歌か恨みの歌か
真相は闇の中
百人一首は恋の歌の宝庫。有名な作品ばかりですが、
醍醐(だいご)天皇の皇后穏子(おんし)に仕えた女房
右近(うこん)の歌は、昔から解釈がわかれています。
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
(三十八右近)
忘れられてしまうわが身はどうでもよいのです
誓いを破ったあなたが神の罰で命を失うのが惜しいのです
オリジナルの『拾遺集』には詞書がありません。
捨てられた女は、それでもなお愛しい男の身を案じているのでしょうか。
なにさあんな男と思いつつ、口先だけで心配して見せているのでしょうか。
それとも、いっそ神罰で死んでしまえと…。
それはちょっと怖いですね。
しかしこの歌の相手ではないかと思われる
権中納言敦忠(四十三)こと藤原敦忠(あつただ)が
38歳の若さで亡くなったのは、右近との約束を破った罰だというウワサも。
敦忠は藤原時平の息子で容顔美麗。
諸芸に優れ、右近以外にも恋人が多かったことで知られます。
「逢ひ見ての」の後朝の歌は若者らしい初々しいものでしたが、
右近にとってはどんな男だったのでしょう。
恋多き宮廷歌人
右近本人も恋多き歌人でした。その相手は百人一首歌人だけでも
敦忠のほかに元良親王(二十)、元輔(四十二)、
朝忠(四十四)、能宣(四十九)という顔ぶれ。
高貴な男たちばかりです。
あひしりて侍りけるおとこの久しうとはず侍りければ
なが月ばかりにつかはしける
大方の秋の空だにわびしきに物思ひそふる君にもあるかな
(後撰集秋右近)
ありふれた秋の空でさえわびしいものなのに(訪れてもくれない)
あなたはわたしにさらに物思いをさせてくれるというのね
人の心かはりにければ
思はむとたのめし人はありときくいひしことのはいづちいにけむ
(後撰集恋右近)
わたしが愛の言葉を信じたあの人は今もいると聞きましたが
おっしゃったあの言葉は何処に行ってしまったのでしょう
またまた恨みの歌。
右近には振られた女の歌が多いのですが、
次の歌のようにドキリとする歌も遺しました。
人のおとこにて侍る人をあひ知りてつかはしける
から衣かけてたのまぬ時ぞなき人のつまとは思ふものから
(後撰集恋右近)
神かけてあなたを頼りに思わない時はありません
他人のものとは知っていながらも
「からころも(唐衣)」は「かける」に掛る枕詞。
他人の男と恋をしたわけですから、不倫ですね。
振られているばかりじゃなくて、
右近は恋に積極的な女性だったのでしょうか。
当時は男が女のもとを訪れるのが一般的。
男が来なくなれば恋はおしまいでした。
また男は正妻があっても、自由に他の女の家に通っていました。
一夫多妻の時代、男が独身かどうかよりも、
本気かどうかが女の人生を左右しました。
信じるしかない、頼るしかない女。
そういう受け身の立場を理解してあげないと、
右近がかわいそうなことになってしまいます。