読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【32】都のたつみはどの方角?


喜撰のユーモア

江戸時代の狂歌師、随筆家の大田南畝(1749-1823)に
『狂歌百人一首』という作品があります。
小倉百人一首をパロディ化したもので笑える歌がたくさんあるのですが

わが庵はみやこの辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治

喜撰(きせん)法師の和歌に十二支すべてを入れてしまっています。
最後の「う治」はもちろん「宇治」に掛けたもの。
オリジナルを見てみましょう。

わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり
(八喜撰法師)

わたしの草庵は都の東南にあり鹿の棲むようなところ
こうしてちゃんと暮らしているのに
他人は世を憂いと思って宇治山に住むなどというようですな

喜撰さんは俗世間を嫌がって宇治山に隠棲したらしいよ…、
そんなウワサでもあったのでしょうか。
掛詞が余裕たっぷりのユーモアを感じさせる一首です。


方位と十二支

現代では方角を言うのに辰巳や午(うま)という言葉は使いませんが、
かつては十二支が方位に振り分けられていました。
北を子(ね)として右に一周していたので、並べてみます。

・北=子
・北東=丑寅(艮)
・東=卯
・東南=辰巳(巽)
・南=午
・南西=未申(坤)
・西=酉
・西北=戌亥(乾)

括弧の中は一文字で表す場合に用いられる漢字。
いずれも易経にもとづくものです。
艮(うしとら)と坤(ひつじさる)は珍しいですね。

このうち丑寅がいわゆる鬼門(きもん)で、
鬼が出入りする不吉な方角とされていました。
「オニ」は本来目に見えない霊的な存在だったのですが、
丑(牛)の角を生やし寅(虎)皮の褌を締めた姿を
どこかの絵師が発明して広めたようです。

それはともかく、南畝の狂歌は
辰巳を基点として360度パノラマのように一周して
もとの宇治山に視線が戻ってきたような気もします。


今はない宇治山

宇治という地名は応神天皇の皇子、
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に由来するといわれます。
ただ歌枕ともなった宇治山は後に喜撰山と呼ばるようになったので、
現在の地図にはその名がありません。

平安時代、宇治の里は
都に近い避暑地として貴族たちに愛されました。
宇治川西岸にあった藤原道長の別荘を息子頼長(よりなが)が寺院とし、
平等院と名づけたことはよく知られています。

喜撰の時代には、まだリゾート開発は進んでいなかったと思われます。
住む人のいない、寂しい所だったのでしょう。