読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【35】王朝文化の終焉


親ゆずりの文武両道

子どもの頃に、百人一首の「ももしきや」が
「ももひきや」に聞こえてしょうがなかった
という経験のある人は少なくないでしょう。

「ももしき」はもともと「大宮」や「内」などにかかる枕詞。
転じて皇居、内裏を指しますが、漢字では「百敷」と書いて、
多くの石を用いて造った城という意味なのだそうです。

ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
(百順徳院)

皇居の古びた軒端に生える忍草(しのぶぐさ)を見るにつけても
偲んでも偲びきれない昔であることよ

この歌は建保4年(1216年)、順徳(じゅんとく)がまだ天皇在位中の20歳くらいで詠まれたとされています。

老人の述懐みたいな歌ですが、この頃すでに鎌倉に幕府が置かれ、
宮廷の権威は大きく損なわれていました。
偲んでも偲びきれない昔というのは、天皇を頂点とした
古(いにしえ)の太平の世のことなのでしょう。

順徳天皇は兄土御門(つちみかど)帝の譲位をうけて即位しました。
院政を敷いていた後鳥羽院(前話参照)から見て、
おとなしく世間知らずの土御門では頼りなかったためといわれます。

順徳は父後鳥羽院に似て聡明闊達な人物だったそうです。
早くから文武両道に才能を発揮し、宮中の歌合では
たびたび定家を負かすほどの実力を示していたという話も。

しかし順徳天皇は25歳のとき、
わずか4歳の皇子(仲恭天皇)に譲位して倒幕計画に専念。
承久3年(1221年)父を扶けて挙兵するもあえなく敗れ、
佐渡へ流されてしまいます。

仲恭(ちゅうきょう)天皇は即位の礼さえ行わないうちに譲位させられ、
兄の土御門上皇はみずから申し出て土佐に下っていきました。
後鳥羽院に連なる人々は次々と宮廷を去ったのです。


定家の意図はどこに

定家は百人一首の最初に天智天皇、持統天皇の父子を置き、
最後を後鳥羽院、順徳院の父子で締めくくっています。
しかし歌の違いは歴然としており、
最後の二人は嘆きの歌、恨みの歌。

定家は王朝文化の花開く頃からしぼみ始める頃まで、
前後およそ600年にわたる時代のパノラマを
その華やかさを回顧するように並べているのです。

百人一首は後鳥羽、順徳の両院に捧げたというだけでなく、
定家自身がその中に生きていた王朝文化への
哀惜の念が込められていたのかも知れません。