『小倉百人一首』
あらかるた
【37】皇女に生まれて
生涯独身を通した皇女
式子(しょくし)内親王(1149頃-1201)は後白河院の第三皇女で、
平治元年(1159年)から10年ほど賀茂の斎院を務めました。
その後も独身を通し、建久5年(1194年)頃に出家。
『新古今集』に女性としては最多の49首が入集するなど、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての
代表的な女性歌人として大きな足跡を残しています。
そんな式子内親王の恋人だったのではないかと
いわれているのが百人一首の撰者藤原定家です。
定家は内親王より12歳ほど年下。
定家の父俊成(八十三)が内親王の和歌の師だったこと、
定家は子どもの頃から内親王と親しく、
御所にたびたび出入りしていたことが知られています。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
(八十九式子内親王)
私の命よ絶えるならば絶えてしまうがよい
生きながらえていると忍びきれなくなってしまうかも知れないから
恋歌の名手だった定家が、独り身の憂いに沈む内親王に
このような情熱的な歌の手ほどきをしている光景を想像すると、
何かあったのではないかと、つい考えてしまいます。
激動期の女性歌人
『新古今集』は入手しやすいので
それ以外から内親王の作品を見てみましょう。
次の歌は斎院を辞めた数年後、
葵祭で榊の枝に神を移す神事の行われる日に
誰かが献上した葵に書きつけたというもの。
神山のふもとになれしあふひくさ引別れても年ぞへにける
(千載集夏前斎院式子内親王)
賀茂神社の神山の麓に慣れた(生えた)葵草よ
別れて縁のない身となって何年も経ったものね
「神山」は賀茂神社の背後にある山の呼び名。
「慣れた」と「生(な)れた」を掛けることで住み慣れた賀茂を回顧し、
「草」の縁語「引く」から「引分る(はなればなれになる)」を導いて
三十一文字を巧みに使い切って思いを述べています。
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸をいくへもとぢよつたの紅葉ば
(新勅撰集秋式子内親王)
秋だから(飽きたから)というので人は訪ねてこない
松(待つ)の戸を幾重にも閉じてしまえ蔦のもみじ葉よ
これも技巧的な歌ですが、
赤く燃える蔦の葉が言葉とは裏腹な熱い恋心を思わせ、
切ない恋歌になっています。
技を超えて思いが伝わるのが内親王の魅力なのですね。
保元・平治の乱の時代を生き、父親の幽閉や兄弟の戦死など
苦悶の多い生涯を送った式子内親王。
和歌だけが終生の友だったのかも知れません。