読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【38】写生かフィクションか


健康によい菊の歌

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)のこの歌、
正岡子規が「大げさ」のひと言で切り捨ててしまったのは有名な話です。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
(二十九凡河内躬恒)

初霜が降りて見分けがつかない白菊の花を
折るなら折ってみよう当てずっぽうにでも

しかし同じ明治時代に、
こんな評を書いている人もいました。

初霜の降るころ午前五時半くらいに起き、
冷水摩擦をすませて日がほのぼのと出るころには、
身体もホクホク温まってくる。 

そこで東籬(とうり=東の垣根)の菊を眺め、
ドレドレ一枝折って活けようかという美想
これでこそ菊も長寿の縁となる。

糸左近著『衛生評釈百人一首』(明治41年)から抄出。
百人一首を「保健衛生」の観点から評釈しているのですが、
躬恒の歌、衛生的には好ましかったようです。

ちなみに躬恒の次の壬生忠岑(三十「有明の」)は
月を見て悲観するさえツラ憎いのに、
堕落のために月を恨むなど言語道断とこきおろされています。
総じて悲しい歌、恋の歌は衛生上好ましくなかったようで。


あるはずがない光景

躬恒に言わせれば、大げさかどうかも、
健康的かどうかも、余計なお世話です。

躬恒が目指したのは写生ではなく、
早起きする健康的な生活でもなく、
和歌がつくり出す美の世界でした。

つまり現実である必要はないのです。
菊の白と霜の白が見分けがつかない、
そんな白一色の光景を創造してみせ、
和歌が創作文学であることを示した、
大変に意味深い一首と考えられます。

躬恒は屏風歌を頼まれることが多かったといいます。
屏風絵というフィクションに書き添える歌ですから、
歌も当然フィクションであってかまわないわけです。

降る雪に色はまがひぬ梅の花香にこそ似たるものなかりけれ 
(拾遺集春凡河内躬恒)

梅の花の色は降る雪に紛れてしまったけれど
香りは似たものがないから紛れようもないね

今度は梅に雪ですが、またもや白い風景。
どのような絵が描かれていたのでしょう。
絵と歌が一体化した理想的な美の創造は、
王朝文化の優美な楽しみのひとつでした。