『小倉百人一首』
あらかるた
【3】見たことのない歌枕
空想が生んだ名歌
和歌の達人と呼ばれる能因法師、あるときこういう歌を作りました。
都をばかすみとともに立しかど 秋風ぞふく白河の関
(後拾遺集 羈旅)
春霞のころに都を出たけれど
白河の関に着いた今はもう秋風が吹いていることよ
旅の歌として有名ですが、実は能因、
白河の関には行ったことがありませんでした。
白河は現在の福島県白河市、みちのくの入口とも呼ばれるところです。
都にいたままこの歌を発表するのもおかしいと思い、
能因はしばらく姿を隠します。
何をしていたのかというと、日焼け。
充分日に当たって黒くなったころ、
みちのくに修行に行っていたときに詠んだものでして、
といって披露したのです。
(古今著聞集 第六)
実話とは思えませんが、
能因さんならやりそうなことだと思われて語り伝えられたのでしょう。
『古今著聞集』にも「能因はいたれるすきもの」と書かれているくらいです。
能因法師の百人一首所収歌は
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり
(六十九 能因法師)
山風が吹いて散らす三室山のもみじ葉は
龍田川の川面を錦のように彩っていることだ
この一首は永承四年の内裏歌合(うたあわせ)で詠まれたもの。
歌合というのは歌人たちが左右二組に分かれ、
出された題に合わせた歌を詠んで優劣を競う競技です。
だからこの歌も、実際に三室山の紅葉が
龍田川に散り落ちるさまを見て詠んだわけではないのです。
百人一首の歌枕
和歌に詠み込まれている地名の多くは歌枕(うたまくら)です。
三室山と龍田川が紅葉の名所であるように、たいてい何かの名所、
もしくは国境(くにざかい)が歌枕として選ばれています。
歌枕はたくさんありますが、
百人一首には30ほどが詠まれています。
いくつか列挙してみましょう。
○末の松山(宮城)…松の名所
○伊吹山(滋賀・岐阜)…国境
○逢坂山・逢坂の関(京都・滋賀)…関所
○天の橋立(京都)…日本三景
○宇治山(京都)…紅葉の名所
○初瀬(奈良)…長谷寺の所在地
○吉野(奈良)…桜・紅葉の名所
○難波江・難波潟(大阪)…葦の名所
○須磨(兵庫)…関所
○因幡山(鳥取)…松の名所
これらの地名はまずだれかが歌に詠み、
それを他の歌人も詠むことで、次第に歌枕として定着していきました。
特定のものの名前や風物、感情表現を導くために使われるものなので、
行ったことがあるか、見たことがあるかとは無関係なのです。
「難波江」や「難波潟」の歌枕は葦や海に関連する言葉を導き、
「逢坂の関」は「逢う」を導くというのは約束ごとでした。
歌人たちはこういう決まりを活かして連想、想像をはたらかせ、
和歌の世界を広げていったのです。
自邸に歌枕を作った男
源融(みなもとのとおる)にこういう一首があります。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに
(十四 河原左大臣)
みちのくのしのぶもじ摺りのようにわたしの心は乱れている
(あなた以外の)誰のせいで乱れ始めたわたしでもないのに
「しのぶ」は「信夫」と書いて福島県にある歌枕、
「しのぶもぢずり」はしのぶ草で作った染料を用いた染色方法のこと。
ねじれ模様のある石に染料を塗りつけ、
そこに布をあてて摺ったのだそうです。
石を使ったプリントですね。
『古今集』に収録され、『伊勢物語』にも引用された有名な一首。
「信夫」と「忍ぶ」、「染め」と「初め」が掛詞になっていて、
「みだれ」は染め模様の乱れと心の乱れをあらわしています。
江戸時代、松尾芭蕉はしのぶもぢずりの石を見ようと
信夫の里を訪れています。
しかしそこにあったのは半分土に埋まった石。
通行人が畑の麦をちぎって石に擦りつけるのを嫌がって、
村人が谷に突き落としてしまっていたのです。
考えてみると、しのぶもぢずりの石が一つだけというのはおかしい。
特産品ならプリントに使った石はたくさんあったはずです。
信夫の里が歌枕として有名になり、石を使う染色が注目されたので
「これがウワサのもぢずりの石」とばかりに、
あとから名所を作ったのでしょう。
つまり、村おこし。
それが観光客の麦荒らしを招いてしまったので捨てられてしまった。
芭蕉も「さもあるべきことにや」と苦笑したようです。
さて、源融が河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれたのは、
六条鴨川のほとりに河原院と呼ばれる豪華な別邸を設けたから。
融はこの邸に塩釜(しおがま)の風景を作らせました。
塩釜は陸奥の歌枕です。
池には海水を満たし、魚を泳がせ、藻塩を焼かせて
楽しんでいたと伝えられています。
藻塩というと、百人一首の撰者藤原定家の歌がありました。
来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに やくや藻塩の身もこがれつつ
(九十七 権中納言定家)
待っても来ない人を待つわたしは
松帆の浦の夕凪の浜で焼く藻塩のように身も焦がれる思いです
この一首の歌枕は「松帆の浦」で、淡路島北部にある地名です。
製塩のために海藻を焼くさまと
恋人を待ちこがれる気持ちを重ね合わせた切ない恋の歌。
定家は融の恋の歌に呼応させるつもりでこの一首を選んだのでしょうか。
河原院のその後
融の死後、河原院は宇多院に献上されますが、やがて荒廃が始まります。
院の死後はさらに荒れ、その後寺院として再生されても荒廃は止まらず、
風水害にも遭ってすっかり廃墟となってしまいます。
八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり
(四十七 恵慶法師)
葎(むぐら)の茂る寂しい住まいに
訪れる人の姿はないが秋だけはやってきたことだ
ここに詠われた「宿」は河原院を指します。
雑草に覆われた寂しい廃園、そこを訪れるのはもはや秋だけだというのです。
河原院はこの歌が詠まれたころには寺院になっていて、
融の子孫安法(あんぽう)法師が住んでいました。
作者の恵慶(えぎょう)法師は安法の友人だったそうです。
栄華の影をとどめなくなった河原院は
恵慶法師のほかにも多くの歌人が訪れています。
百人一首の歌人ではこのふたり。
君まさで煙たえにししほがまの 浦さびしくもみえわたる哉
(古今集 哀傷 紀貫之)
あなた(源融)がいらっしゃらず塩釜の煙も絶え
浦の様子も寂しく見えることです
年ふればかはらに松は生ひにけり 子の日しつべきねやの上かな
(能因法師)
年を経て河原院に松が生えていましたが
子の日の松を引く野原のようになっていたのは寝殿の跡なのでしょうか
子の日(ねのひ)というのは
正月初めの子の日に野辺に出て、若菜や小松を摘む行事のこと。
『源氏物語』に「千年の春をかけて祝はむ」(初音)とあるように
長寿を願い、邪気を払う目的がありました。
『今昔物語集』によると能因の詠んだ松も風に倒れてしまったとあり、
定家が小倉百人一首を選定していたころには
跡形もなくなっていたようです。
当時の人々は諸行無常を実感したことでしょう。