読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【4】鬼になった阿倍仲麻呂


消えた仲麻呂

平城京跡に復原された大極殿(だいごくでん)をご覧になりましたか。
先に復原されていた朱雀門(すざくもん)だけでも驚きましたが、
大極殿は高さ27メートル、幅44メートルというスケール。
1300年も前にこれだけの建築技術があったのかと
圧倒される思いがします。

その一方で、復原された遣唐使船を見ると
長さ30メートル、幅は10メートルに満たない木造船。
600人近い人数が四隻の船に分乗して
東シナ海の荒波を越えていったそうですから、
こんなに小さかったのかと驚きます。
先ごろ放映されたNHKドラマ「大仏開眼(だいぶつかいげん)」は
日本に戻る遣唐使船が嵐にもまれるシーンから始まりました。

乗船していたのはドラマの主人公
吉備真備(きびのまきび)と僧玄ぼう(げんぼう)。
ふたりを乗せた遣唐使船は種子島に漂着し、無事帰国を果たします。
天平7年(735年)のことでした。

このとき四隻のうち三隻は難破。
当時の船旅は文字どおり命がけでした。
真備はこのあと天平勝宝3年(751年)に遣唐副使として
再び入唐(にっとう)し鑑真(がんじん)をともなって帰国しますが、
そのときも船は屋久島にまで流されています。

この年の遣唐使船にも
一隻だけ帰ってこない船がありました。
それに乗っていたのが今回の主役
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ=安倍仲麿)。
かれはどこに行ってしまったのでしょう。


仲麻呂は留学生だった

仲麻呂が遣唐留学生として真備らとともに入唐したのは
平城遷都から間もない養老元年(717年)のこと。
仲麻呂はまだ19歳でした。

その後19年を経て真備と玄ぼうは帰国しますが、
仲麻呂は唐にとどまりました。
皇帝が仲麻呂の才能を愛して手放さなかったからだといわれます。
楊貴妃(ようきひ)でおなじみの、あの玄宗(げんそう)皇帝です。

仲麻呂は官僚試験に合格して玄宗に仕え、
李白(りはく)や王維(おうい)などの文人とも交流がありました。
仲麻呂が30年以上滞在した唐から日本に戻ることになったとき、
帰国を惜しんだ王維たちが送別の宴(うたげ)をひらきました。

その際に詠まれたと伝えられるのが百人一首のこの歌。

天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも
(七 安倍仲麿)

空を仰ぎ見ると月が出ているが
あれはかつて春日の三笠山に出ていた月なのだなあ

この歌を載せた『古今集』にも
唐の人々が送別会をひらいたときに詠んだと記してあり、
平安時代にはよく知られた歌だったようです。

ちなみに奈良市の姉妹都市である西安には
阿倍仲麻呂記念碑があり、この歌が刻まれています。(1979年建立)


生きていた仲麻呂

仲麻呂は遭難したと考えられ、
友人だった李白はその死を悼む詩をつくりました。
その中で李白は「明月帰らず 碧海に沈む」と
仲麻呂を月にたとえています。

しかし仲麻呂の乗った船は
はるか南方の安南(ヴェトナム)に漂着していました。
船は壊れ、乗員は現地の住民に襲撃されて、
生き残ったのはほんの10名ほど。
幸運なことに仲麻呂はそのうちのひとりでした。

帰国をあきらめて唐の都にもどった仲麻呂は
再び宮廷の要職に就いて活躍し、
宝亀元年(770年)に亡くなっています。
なんと54年間を異国で過ごしたことになります。
平安初期の『続日本紀(しょくにほんぎ)』には
「わが国の学生で唐で名を上げたものは
ただ大臣および朝衡の二人のみ」と記されています。
大臣というのは吉備真備、
朝衡(ちょうこう)は仲麻呂が唐で使っていた名前です。

仲麻呂と吉備真備は奈良時代のスーパーヒーローとして
平安朝の人々の間では有名人でした。
しかし平安末期になると、不思議な伝説が流布します。


仲麻呂伝説の誕生

「大遣唐使展」に合わせて、ボストン美術館から
『吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)』が里帰り中です。
絵巻の主役はもちろん吉備真備ですが、
真備のそばに貴族の衣裳を着けた赤鬼が描かれています。

この赤鬼こそ阿倍仲麻呂その人。
どうして鬼になってしまったのでしょうか。

伝説によれば仲麻呂の才能を妬む唐の大臣たちによって
酒に酔わされ、高楼(たかどの)に幽閉されて、
怒りのあまり死んで鬼になったというのです。

絵巻では鬼になった仲麻呂が
窮地に追い込まれた真備を助けることになっています。
物語としては面白く、絵もたいへん巧みです。
国宝級といってもいいでしょう。

とはいえ、実際は真備が再度入唐したとき
仲麻呂は存命中だったわけで、
ずいぶん大胆な脚色をしたものです。
当時、唐といえば世界の先端を行く大国。
日本にとっては憧れの国でした。
その唐で妬まれるほどの才能を発揮した日本のエリートということで、
仲麻呂と真備は伝説化しやすい人物だったと考えられます。