読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【5】常にもがもな


実朝と大銀杏

平成22年3月、
鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏(イチョウ)が強風に倒れ、
大きなニュースとなりました。

3ヶ月ほど過ぎた今、
折れた根元から育った新芽がみずみずしい緑の葉を繁らせています。
樹齢800年とも1000年とも言われますから、
そのたくましい生命力には驚かされます。

倒れた大銀杏は八幡宮の、というより鎌倉のシンボルでした。
そして鎌倉三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)の暗殺にまつわる
伝説の銀杏でもありました。
百人一首「世の中は」の歌で知られる、あの実朝です。

実朝は右大臣昇進のお礼に八幡宮に詣でた帰路、
大銀杏の陰に隠れていた公暁(くぎょう)に襲撃され、
命を落としたと伝えられます。
公暁は実朝の兄頼家(よりいえ)の息子、
実朝には甥にあたります。

その後公暁も殺され、源氏頭領の家系はここに断絶。

『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、
実朝は亡くなる当日、このような歌を遺していたそうです。

出ていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな
(吾妻鏡)

わたしが立ち去って主人のいない家となっても
軒端の梅よ 春を忘れず咲いておくれ

信憑性の疑われている『吾妻鏡』ですが、
本当だとしたら死を予感していたかのような一首です。

実朝の父は源頼朝、母は北条政子。
実朝は実権掌握をねらう北条氏によって
わずか12歳で将軍に擁立されます。

百人一首に「鎌倉右大臣」と記されているのは
建保六年(1218)に右大臣に昇進したため。
暗殺されたのは翌年の承久元年、28歳の若さでした。


父頼朝に憧れて

実朝の父頼朝も和歌の名手だったと伝えられ、
『新古今集』にはこのような一首が収められています。

道すがら富士の煙もわかざりき 晴るる間もなき空のけしきに
(新古今集 羇旅 前右大将頼朝)

道の途中では富士山の煙も(雲と)見分けがつきませんでした
晴れる間もない空のようすでしたので

頼朝は慈円(九十五)と贈答歌を交わすほどの実力だったそうです。
父親の歌が『新古今集』に入首したことに刺激され、
実朝は和歌の世界に入り込みます。
師と仰いだのは『新古今集』撰者のひとり、藤原定家でした。
定家はもちろん『小倉百人一首』の撰者でもあります。

定家は実朝に『近代秀歌』や『万葉集』を贈っています。
実朝は京都に行ったことがありませんでしたから、
手紙で指導を受けていたのでしょう。


実朝と万葉集

実朝は京文化への憧れが強く、
後鳥羽院の従妹を正室に迎えています。
実朝という名も後鳥羽院から賜ったものでした。

実朝の和歌は最初は『新古今集』に影響されたものでしたが、
次第に『万葉集』に似た詠みぶりの歌が増えていきます。

宮柱ふとしきたてて 萬代(よろづよ)に今ぞさかえむ鎌倉の里
(金槐集 雑部)

宮殿の柱を立派に建てて
鎌倉の地よいつまでも栄えておくれ

「ふとしく」という古風な言葉が使われています。
『万葉集』を見ると、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の長歌に
「吉野の国の花散らふ 秋津の野辺に 宮柱ふとしきませば」
「水穂の国を神ながら 太敷きまして」
という用例が見られます。
ここで百人一首の実朝の歌を見てみましょう。

世の中は常にもがもな 渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
(九十三 鎌倉右大臣)

世の中はずっと変わらずにいてほしいものだ
渚を漕ぐ漁師の小舟が綱手に曳かれるようすにも心が動かされる

この歌は『万葉集』にある次の歌が本歌(ほんか)です。

川の上のゆついはむらに草むさず 常にもがもな常(とこ)をとめにて
(万葉集22)

川のほとりの岩々に草が生えないように
変わらずにいて欲しいものです 永遠の乙女のままで

明治時代、正岡子規は
「人丸ののちの歌よみは誰かあらん 征夷大将軍みなもとの実朝」と詠み、
あと十年生きたらどれほどの名歌を遺したことかと惜しんでいます。

人丸というのは柿本人麻呂のこと。
子規は『歌よみに与ふる書』などで平安歌人より万葉歌人を高く評価し、
その流れを汲む実朝をほめたたえています。


遺された自撰歌集

実朝は数え年22歳の頃に自作の歌を編集し、
『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』としてまとめました。
700首を越す和歌は若者らしい素朴さ、新鮮さを持つものが多く、
今でも多くの人に愛されています。

大海の磯もとゞろによする波 われてくだけてさけて散るかも
(金槐集 雑部)

大海の磯が轟くほどに寄せる波は
割れて砕けて裂けて散ることだ

相模湾の波を見て詠んだのでしょうか。
なんともストレートでシンプルな歌です。

時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ
(金槐集 雑部)

恵みの雨も降り過ぎれば人々の嘆きです
八大龍王よ 雨を止ませてください

八大龍王は雨や水をつかさどるという龍神たち。
建暦元年(1211年)の洪水の際
独り本尊に向かって祈念したと詞書きにあり、
若き将軍が民衆の苦しみを救おうと願っていたことがわかります。

ではこの一首はどうでしょう。

物いはぬ四方の獣(けだもの)すらだにも あはれなるかな親の子を思ふ
(金槐集 雑部)

感動することに ものも言えないあちらこちらの
動物たちでさえ 親が子を思う気持ちがある

実朝はどんな光景を目にしたのでしょう。
激しい権力闘争の中にあって、
親族であっても気を許すことのできない境遇。
実朝は動物のほうがましだと思ったのではないでしょうか。

「世の中は」の一首にあるように
平穏な日常が「常にもがもな(ずっと変わらなければいいなあ)」と
実朝は願いつづけていたのかも知れません。