読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【7】本歌取りのマナー


本歌取りって何?

和歌の本にはよく「本歌取り(ほんかどり)」という言葉が出てきます。
他人の作品をちゃっかり借用して自分の歌を作ることのようですが、
何か決まりはあるのでしょうか。

辞書・事典の類にはこうあります。
・古歌を素材にして新しく作歌すること。とられた古歌を本歌という。

・先人の歌をもとにして新しい別の歌を作ること。

・古歌の語句・発想・趣向などを採り入れて新しく作歌する手法。
わかったようなわからないような…。

同じ言葉が一つや二つあってもそれだけで本歌取りとはいわず、
本歌との間に密接な関係があってはじめて
本歌取りと認められるようです。ややこしい。
本歌取りが盛んになったのは『新古今集』の時代。
小倉百人一首の撰者藤原定家の本歌取りも載っています。

駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野の渡りの雪のゆふぐれ
(新古今集 冬 藤原定家朝臣)

馬をとめて袖をはらう物陰もないことだ
佐野の渡し場の雪の降る夕暮れは

この歌の本歌は『万葉集』にあります。

苦しくも降りくる雨か 三輪が崎佐野の渡りに家もあらなくに
(万葉集 巻三 長忌寸奧麻呂)

困ったことに雨が降ってきてしまった
三輪が崎佐野の渡りには雨宿りする家もないのに

長忌寸奧麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌は旅の途中の雨がテーマで、
雨宿りする家さえないことを嘆いています。

定家の歌は「佐野の渡り」という一句だけを借用。
雨を雪に替え、馬の旅だとしながらも
旅の途中の困難を描いているのは同じです。
場所も同じだし、真似しただけ、でしょうか。
そっくりといえばそっくりですが、
読んで思い浮かべる情景はかなりちがいます。

そして読者は、
定家の歌から奧麻呂の一首を思い出し、
その素晴らしさを再発見することになります。
定家の歌が本歌取りの典型としてよく紹介されるのは、
そんな理由なのです。


誓いの歌が恨みの歌に

では百人一首にある本歌取りの例を見てみましょう。
まず清原元輔(きよはらのもとすけ)の一首。
元輔は清原深養父(ふかやぶ 三十六)の孫で、
清少納言(六十二)の父でもあります。

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは
(四十二 清原元輔)

誓いましたよね 涙に濡れた袖を絞りながら
末の松山を波が越すことがないように
ふたりの思いも変わることはないと

恨みの歌ですね。これの本歌は『古今集』にあるよみ人知らず。

きみをゝきてあだし心をわが持たば 末の松山浪も越えなん
(古今集 東歌 みちのくうた)

あなたをさしおいて もしもわたしが浮気心を持つならば
末の松山を波が越えてしまうでしょう

松の名所である末の松山は丘なので、波が越えることはあり得ません。
だから浮気なんてあり得ないよと、誓っているわけです。

元輔の歌も本歌取りの典型といわれます。
それは本歌に対する返事みたいだから。
本歌は浮気なんかしないと誓っていますが、
元輔はいきなり「契りきな」(約束しましたよね)とツッコミを入れます。

決して心変わりはしませんと、約束しましたよね。
それなのにあなたは…。

元輔の歌に心変わりをあらわす言葉はありませんが、
相手を責めているところから、
ははぁさては心変わりをしたんだなと、わかるわけです。
本歌を知らなくても元輔の歌はわかりますが、
当時の貴族たちはさまざまな和歌集を学んでいたので、
すぐに何が本歌なのかピンときたことでしょう。
とくに『古今集』は代表的な和歌のテキストでした。


本歌の情感を活かす

次は藤原良経(よしつね)の一首。
本歌を知らなくてもよくわかる歌です。

きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む
(九十一 後京極摂政前太政大臣)

霜が降りるような寒い夜 こおろぎの鳴き声を聞きながら
わたしは筵(むしろ)に衣の片袖を敷いてひとりで寝るのか

孤独な秋の夜を思わる歌です。これの本歌は次の二首。

あしひきの山鳥のをのしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む
(三 柿本人麻呂)

山鳥の長く垂れる尾のように
長い長い秋の夜を わたしはひとりで寝るのだろうか

さむしろに衣かたしきこよひもや 我をまつらんうぢのはし姫
(古今集 恋四 よみ人知らず)

筵に衣の片袖を敷いて(独り寝をして)
今宵もわたしを待っていることだろう 宇治の橋姫は

本歌はどちらも恋の歌です。
良経は二つの本歌の恋の思いを活かし、
さらに「きりぎりす」と「霜夜」という寂寥感をかき立てる語句を選んで、
このような秀歌を産み出したのです。

さて、ここで女性歌人に登場してもらいましょう。
二条院讃岐(にじょういんのさぬき)です。

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし
(九十二 二条院讃岐)

潮が引いたときでさえ水面に見えない沖の石のように
人は知らないでしょうが わたしの袖は乾く間もないのです

この歌の本歌となったのは和泉式部(五十六)の作品です。

わが袖は水の下なる石なれや 人に知られで乾く間もなし
(和泉式部集)

わたしの袖は水の中の石でしょうか
人に知られることもなく乾く間もないのですから

これなどは本歌を超えてしまっていますね。
讃岐はこの歌をきっかけに「沖の石の讃岐」という
ニックネームで呼ばれるようになったそうです。


本歌取りのマナー

百人一首ではほかに西行(八十六)や
殷富門院大輔(いんぶもんいんのたゆう 九十)
源実朝(九十三)の歌が本歌取りです。

しかし百人一首の中には、曾禰好忠(そねのよしただ)のように
本歌取りされてしまった歌もあります。

由良の戸をわたる舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな
(四十六 曾禰好忠)

由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が楫をなくしてさまようように
わたしの恋のみちもどこに向かうのかわからない
この歌を本歌取りしたのは「うかりける」で知られる
源俊頼(みなもとのとしより 七十四)でした。

与謝の浦に島がくれゆく釣船の ゆくへも知らぬ恋をするかな
(源俊頼)

与謝の浦の島に隠れていく釣船のように
わたしもゆくあてのない恋をしていることだ

源俊頼(七十四)は好忠を尊敬していたといいます。
有名な古歌を本歌にするだけでなく、
尊敬する歌人の作品を本歌として
オマージュを作るという例もありました。

しかし本歌取りがブームになると、
ただの模倣やパロディまで出まわるようになったといいます。
そんな風潮に危機感をつのらせた定家、
弟子たちにはこう教えていました。
・最近(八十年以内)の作品を本歌取りしてはいけない

・古歌から採るのは二句ていどがよい

・本歌とは異なるテーマで作歌するのが理想的
俊頼の歌はすれすれ大丈夫だったでしょうか。

本歌取りの手法は『新古今集』以後は廃れていきますが、
現在まで伝えられている本歌取りの和歌は
厳しい撰者たちに選ばれたもの。
作歌のテクニックを味わう楽しみがあります。