『小倉百人一首』
あらかるた
【8】いやいやながら僧にされ
長岡京から平安京へ
今年(2010年)は平城遷都1300年。
710年(和銅3年)3月、藤原京から平城京へと都が移されたのです。
桓武(かんむ)天皇による平安京への遷都は794年(延暦13年)のこと。
しかしその前に、長岡京があったことをご存知でしょうか。
桓武天皇は即位3年後の延暦3年、
みずから候補地を選んで長岡京造営を急がせます。
即位した直後から謀反を起こす人物が出たり
飢饉や疫病の流行がつづいたからだと考えられています。
しかし長岡京にも災難が相次ぎます。
長岡京造営使だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、
皇太子の早良親王(さわらしんのう)の幽閉・自死にまで発展。
さらには洪水、天皇の母と皇后の病死という凶事が重なり、
早良親王の代わりに立太子した安殿皇太子も病気になってしまいます。
これらは早良親王のたたりだということになり、
天皇は延暦12年に遷都を決定、翌年10月に平安京遷都を果たします。
長岡京はこうして束の間の歴史の幕を下ろしたわけですが、
天皇はその後も早良親王の怨霊(おんりょう)を恐れつづけ、
諸国の国分寺に読経を命じるなど、終生気を遣いつづけました。
天皇の孫だった僧正遍昭
桓武天皇が下級女官に産ませた皇子がありました。
僧正遍昭(そうじょうへんじょう 十二)の父、
良岑安世(よしみねのやすよ)です。
安世はおそらく母親の身分の低さゆえ、
良岑朝臣という姓を賜って臣下となりました。
しかし安世は臣下として大納言まで昇進し、
最澄の比叡山草創を援助したり、
淳和天皇(桓武天皇の第三皇子、安世には異母兄弟)の命を承けて
勅撰漢詩集『経国集』の撰者となったり、
平安時代初期の文化の発展に貢献しました。
遍昭はそんな宮廷エリートの息子。
俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい、
仁明(にんみょう)天皇に寵愛されて
近衛少将、蔵人頭などの官職を歴任します。
前途洋々の若者が詠んだのが、百人一首にも選ばれたこの歌。
天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとヾめむ
(十二 僧正遍昭)
空を吹く風よ 雲の通り道を吹き閉ざしておくれ
天女の姿をしばらくとどめておきたいから
江戸川柳に「遍昭は女に何の用がある」という
おふざけの句がありますが、これは誤解というもの。
出家する前に宮中で五節(ごせち)の舞を観て詠んだものだからです。
『古今集』には良岑宗貞の俗名で掲載されています。
宗貞出家
宗貞は良少将、深草少将とも呼ばれ、モテモテの貴公子でした。
しかし仁明天皇が嘉祥3年(850年)に急逝すると、
宗貞はその初七日に出家してしまいます。
ときに35歳の若さ。
剃髪(ていはつ)にあたって詠んだ歌が伝えられています。
たらちめはかかれとして もうばたまのわが黒髪を撫でずやありけむ
(後撰集 巻十七)
わが母はこうなる(髪を剃る)ようにと思って
わたしの黒髪を撫でたのではないでしょうに
天皇に殉ずる気持ちと、
母親に申し訳ないという気持ちのせめぎ合いです。
天皇の死を悼む心は強かったとみえ、
僧形となった宗貞は翌年、比叡の山でこう詠んでいます。
みな人は花の衣になりぬなり 苔のたもとよ乾きだにせよ
(古今集 哀傷 僧正遍昭)
喪が明けて都は華やかさを取り戻しているだろう
涙に濡れて苔が生えるほどのわたしの袂よ、乾いておくれ
遍昭と同じ頃、仁明天皇の皇子、常康親王も出家していました。
親王の住まいを寺にしたのが遍昭といわれ、
雲林院(うりんいん)と呼ばれたこの寺は
やがて出家した歌人たちのサロンになっていきます。
遍昭は先帝を偲んでひっそり暮らしていたわけではありませんでした。
修行の末、名僧と称えられるようになった遍昭は
貞明(さだあきら)親王の護持僧に任命され、宮廷に返り咲きます。
貞明親王はのちの陽成院(十三)です。
わずか九歳で即位した陽成天皇が在位9年に満たず譲位すると、
高齢だった光孝天皇(十五)が即位。
この天皇の乳母(めのと)は遍昭の母だったといいますから、
「天つ風」と「君がため」は幼なじみだったことに。
まどひありく法師
少し時代が下って、
文室康秀(ふんやのやすひで 二十二)にこういう歌があります。
草深き霞の谷に影かくし 照る日のくれしけふにやはあらぬ
(古今集 哀傷 文室康秀)
草深く霞のかかる谷に姿を隠し
輝く日の暮れてしまった今日なのだなぁ
『古今集』に遍昭の「みな人は」と並んで収められています。
仁明天皇は深草に葬られたため「深草の帝」と呼ばれており、
康秀は天皇崩御と草深い谷への落日とを重ね合わせて挽歌としたのです。
さて、百人一首で文室康秀と並んでいるのが
素性法師(そせいほうし)です。
素性は遍昭の息子で、
父親の出家にともなって一緒に出家させられてしまいます。
素性法師の百人一首所収歌は
いま来むといひしばかりに 長月の有明の月を待ちいでつるかな
(二十一 素性法師)
すぐに行くとあなたが言ったばかりに毎夜待ち明かして
とうとう九月の有明の月を見てしまったことです
恋の歌が少ないといわれる素性法師が
女性の立場で詠んだ一首。
素性はお坊さんらしくないエピソードが多く、
遺された和歌も現世を謳歌するものがほとんどです。
そしてこんな歌も。
いづくにか世をばいとはむ心こそ 野にも山にもまどふべらなれ
(古今集 雑歌下 素性)
世を厭う心などどこにあるものか
野にも山にもさまよい歩くのがいいのさ
いやいやながら僧にされた素性、
それにしてもあっさり白状したものです。