『小倉百人一首』
あらかるた
【11】怨霊となった歌人たち
異例の昇進
菅原道真(すがわらみちざね)はなぜ神になり、
天神さまと呼ばれているのでしょうか。
道真は承和(じょうわ)12年(845年)学者の家系に生まれ、
幼少時から才能を発揮して32歳で文章博士(もんじょうはかせ)となり、
宇多(うだ)天皇、醍醐(だいご)天皇に重用されて ついには右大臣にまで昇進します。
天皇には藤原氏の専横を牽制する目的があったとされますが、
学者から大臣になったのは 吉備真備(第七話に既出)以来でした。
百人一首にあるこの歌は 右大臣になる直前に詠まれたもの。
このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに (二十四菅家)
このたびの旅は幣(ぬさ=みてぐら)も持ち合わせておりません
とりあえずは手向山(たむけやま)の錦のような紅葉を
御心のままにお受け取りください
昌泰(しょうたい)元年(898年)の秋、
醍醐天皇に譲位した宇多上皇は奈良の名所、宮滝を訪れました。
道真や紀長谷雄(きのはせお)などの側近、官人を大勢引き連れ、
石上寺から素性法師(二十一第十六話に既出)まで呼び出して、
かなり大がかりな行幸だったようです。
漢詩の名手と和歌の名手を伴っていたことになりますが、
風流な遊びだけを楽しんでいたわけではありませんでした。
狩りの成果を競いあい、騒いで飲み明かし、
遊女たちとたわむれていたといいます。(紀家集)
そんな中に混じって遊んでいた道真、
聖人君子のイメージはありません。
神になった右大臣
道真は三年後の延喜(えんぎ)元年(901年)、
左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)の策略によって 太宰府(だざいふ)に左遷され、
翌々年に亡くなります。
異変がつづいたのはそのあとです。
時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると
時平の甥にあたる保明(やすあきら)親王が21歳で、
その息子の慶頼王(やすよりおう)が5歳で次々に病死。
道真のあと右大臣となっていた源光(みなもとのひかる)も亡くなります。
さらに延長8年(930年)、清涼殿に落雷があり、
朝廷の要人に多くの死傷者が出ます。
醍醐天皇はショックのあまり病の床に伏し、
そのまま亡くなりました。
一連の異変は道真の怨霊のしわざにちがいないということになり、
朝廷は亡くなった道真の罪を取り消し、
流罪(るざい)となっていた息子たちも赦し、
さらには道真に太政大臣の位を贈っています。
かつては恨みをもって死んだ者の霊は成仏せずにさまよい、
強力なたたりをなすと考えられていました。
醍醐天皇の時代は疫病や飢饉がつづいており、
その原因が道真の怨霊に結びつけられたのです。
道真の霊は雷神(天神)となって猛威を振るったため
やがて天神として祀られることになりました。
天神社の建てられた北野が雷神信仰の地であったのはそのためでしょう。
しかし道真が文章博士だったことから、
天神は学問の神として尊崇されるようになっていきます。
江戸時代の寺子屋では書道の神として祀っていました。
もはや荒ぶる神ではなくなったのです。
ほとばしる激情
めずらしい「闘魂」のお守りで知られる 京都市上京区の白峯神宮(しらみねじんぐう)は、
意外に新しく明治元年(1868年)の創建。
祀られているのは崇徳(すとく)天皇の霊です。
崇徳天皇は歌人として優れ、『千載集』や『詞花集』、
『風雅集』などに数々の秀歌が遺されています。
百人一首に選ばれたのは
瀬を早み岩にせかるゝ滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ (七十七崇徳院)
浅瀬の流れが速いので岩にあたって二つに分かれる滝川の水が
再び一つになるようにあなたとまた逢おうと思う
百人一首の中でも人気の高い恋の歌。
若者らしい情熱を感じます。
この歌はまず久安(きゅうあん)6年(1150年)、
退位後に主催した「久安六年御百首」で詠まれました。
オリジナルは
ゆきなやみ岩にせかるゝ谷川のわれても末にあはむとぞおもふ
改作によって激しい恋の歌に変貌していますね。
このほとばしる激情が崇徳天皇の無惨な運命と重ね合わされ、
鬼気迫るものを感じます。
御霊の帰京
崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子、
母は藤原璋子(しょうし/たまこ)。
しかし実父は鳥羽天皇の祖父である白河院といわれ、
崇徳は鳥羽から「おじご」と呼ばれて冷遇されます。
白河院は鳥羽に圧力をかけ、
わずか5歳の崇徳に譲位させますが、
白河院が亡くなると、こんどは鳥羽が崇徳に譲位を迫ります。
崇徳は23歳で3歳の近衛(このえ)天皇に譲位したのち、
藤原頼長(よりなが)らと組んで皇位簒奪の兵を挙げます。
これが乱世の幕開けとなった「保元の乱」です。
蜂起は失敗し、崇徳上皇は捕らえられて
讃岐に流され、その地で亡くなります。
葬られたのは白峯陵(しらみねのみささぎ:香川県坂出市)でした。
その後、都には疫病や皇族、貴族の連続死、
内裏まで巻き込む大火などが相次ぎ、
朝廷は崇徳に「崇徳院」という院号を贈って鎮魂を試みます。
崇徳院のたたりは次第に沈静化していきますが、
後醍醐(ごだいご)天皇(在位:1318-1339)による建武新政の際、
再びたたりをなして混乱を拡大させたといわれます。
明治の大政奉還の際に
たたりはまだつづくのではないかという恐れから、
崇徳院の霊は讃岐から呼び戻され、神として白峯神宮に祀られます。
なんと700年ぶりの帰京でした。
毎年9月の秋季祭は「崇徳天皇祭」です。
祭のにぎわいを、天皇はどんな気持で眺めているのでしょう。