読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【12】紫式部の横顔


新人デビューを演出

紫式部のエピソード、まずは 伊勢大輔(いせのたいふ)の一首から。
詞書(ことばがき)も一緒に読んでみましょう。

一条院の御時奈良の八重桜を人の奉りけるを
その折御前に侍りければ
その花を題にて歌よめとおほせごとありければ

いにしへの奈良の都の八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな
(六十一伊勢大輔)

昔の奈良の都の八重桜が
今日は九重(ここのえ)で美しく輝いていることです
一条天皇の時代、 奈良の僧から八重桜が献上されました。

新人女房だった伊勢大輔は
紫式部から花の受け取り役を譲られ、
さらに関白の道長に一首詠むようにと命ぜられます。

そこでとっさに詠んだのがこの歌。

九重は宮中のことで、桜の八重と組み合わせることによって
一条帝の宮廷と奈良の桜を巧みに称えています。

この即興歌は評判を呼び、
伊勢大輔の名は一夜にして宮中に知れわたることになりました。

紫式部が新人に意地悪をしたんじゃないかという説もありますが、
失敗すれば座が白けてしまうわけですから、
後輩の実力を見込んだ紫式部が、
文字どおり花をもたせたのでしょう。


女友だちとの別れ

歌集『紫式部集』は、
百人一首にも収められたこの歌で始まっています。

めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな
(五十七紫式部)

久しぶりにめぐり逢ってその人かどうかも見分けられないうちに
雲隠れした夜半(よわ)の月のようにあなたは去ってしまったことね

詞書にこうあります。

幼いころからずっと友だちだった人に
何年か経って出逢ったところ、わずかの時間だけで
七月十日くらいに月と競うように帰ってしまったので

十日前後の月は夜も早いうちに沈みます。
旧交を温めるには時間が足りなかったのでしょう。
幼かった友はすっかり大人になっていたかも知れません。

受領(ずりょう)階級の子どもは
父親の任地に伴われていくことが多く、
この友だちも九月には親の新たな任地へ旅立ちました。
(受領=国司:任期四年)

紫式部は幼いころ姉を亡くしていて、
同じように妹を亡くした少女と出逢います。
ふたりは姉妹のように仲よくつき合い、手紙の上書きにも
「姉君」「中の君」と書いてやりとりしていました。

しかし式部の父は越前へ、友人の父は筑紫(九州)へと
それぞれ都を離れて赴任していくことになりました。

北へ行く雁のつばさにことづてよ雲のうはがきかきたえずして
(紫式部集)

北へ飛ぶ雁の翼に伝言してね
これまで通り上書きを絶やさないで
せめて手紙の上書きだけでも姉妹のままでいたい、
そんな思いが詠われています。

『紫式部集』にはこのような別離の歌が多く、
都に定住できない中流貴族の生活の一面を見るような気がします。


夫婦喧嘩のてんまつ

『紫式部集』は贈答歌が多いのが特徴で、
夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と交わした歌も
いくつか収載されています。

面白いのはケンカも歌で応答していること。

あるとき、宣孝が式部からの手紙を他人に見せてしまったのに怒り、
これまでの手紙を全部返してくれないと
もう返事は書きませんよと伝えた式部。
宣孝はそれは絶交みたいじゃないかと恨みごとを言います。

そこで

閉じたりし上の薄氷(うすらひ)解けながらさは絶えねとや山の下水

凍りついていた川の薄氷が溶けるようにうち解けましたのに
さては絶えてしまえとお思いなのですか
しかし宣孝はおさまらないようで

東風(こちかぜ)に解くるばかりを底見ゆる石間の水は絶えば絶えなむ
今は物も聞こえじ

浅瀬の流れが速いので岩にあたって二つに分かれる滝川の水が
再び一つになるようにあなたとまた逢おうと思う

春の風に解けたくらいのふたりの仲なのに
底の見える石の間の浅い流れのように絶えるなら絶えればいいさ
もう何も言わないよ

式部は余裕たっぷりの歌を返します。

言ひ絶えばさこそは絶えめなにかそのみはらの池をつつみしもせむ

おしまいだとおっしゃるならそれもよいでしょう
こちらはお腹立ちにもへっちゃらですわ
「みはらの池」と「腹立ち」、「堤」と「慎み」が掛詞(かけことば)。
巧みな返歌に宣孝も参ったようで、こんな歌が届きます。
たけからぬ人かずなみはわきかへりみはらの池に立てどかひなし

立派でもなく人並みでもない自分は腹が煮えくり返っているが
あなたに腹を立てても勝ち目がないね
無事に仲直りしたようですね。

ほかにもむつまじさを感じさせる贈答歌があり、
親子ほど歳の離れたふたりはうまくいっていたようです。

やがて娘賢子(かたこ=のちの大弐三位五十八)も生まれますが、
疫病の流行で宣孝が倒れ、そのまま死去。
三年に満たずに式部はシングルマザーになってしまいました。
『源氏物語』を書き始めたのはそのころと考えられています。


ライバル伝説の真相

紫式部は『紫式部日記』の中で、
「したり顔にいみじう侍りける人」と
清少納言を酷評しています。

式部の主人彰子(しょうし)と少納言の主人定子(ていし)が
天皇の妻としてライバル関係だったこともあり、
ふたりもライバルで仲が悪かったと思われています。

しかし式部が彰子のもとに出仕したころ、
少納言は女房を辞めて五年ほど経っていました。
おたがい顔も知らなかった可能性が高いのです。

ではなぜ式部は少納言が気に入らなかったのか。
それは『枕草子』の二つの記事が原因だといわれています。

まず一つは夫宣孝のこと。

宣孝は御獄詣(みたけもうで)の際、
だれもが質素な衣裳で参詣するにもかかわらず
「むらさきのいと濃き指貫(さしぬき)」などの
人目を引く派手ないでたちで参詣したというのです。
(枕草子第百十九段)

もう一つは従兄(いとこ)にあたる藤原信経(のぶつね)が
たいへんな悪筆だったという話題で、
従兄はすっかり笑いものにされています。
(枕草子第百三段)

もし読んでいたのだとしたら、
紫式部の怒りもうなずけます。

宮廷を退いた清少納言は
しばらくの間、和泉式部や赤染衛門と
文通をしていたと伝えられており、
紫式部には清少納言の人柄を知る機会があったのかも知れません。

『源氏物語』の「朝顔」の巻に
『枕草子』の記事への皮肉とも思える一節がありますから
「読んでいた」説が有力な気がします。