『小倉百人一首』
あらかるた
【13】よみ人知らず
仮小屋で夜を明かす天皇
百人一首はすべて歌人の名前が記されていますが、
じつはよみ人知らず(作者不詳)の歌がいくつか含まれています。
たとえば第一番の天智(てんじ)天皇。
大化改新で知られる、あの中大兄皇子です。
秋の田のかりほのいほの苫(とま)をあらみわが衣手は露にぬれつつ
(一天智天皇)
秋の田の仮小屋の苫葺き屋根が粗末なので
わたしの袖はずっと夜露に濡れていることだ
『後撰集(ごせんしゅう)』の秋の巻に
天智天皇御製(ぎょせい)として収められた一首です。
「かりほ」は「刈り穂」と「仮庵」の掛詞(かけことば)。
「苫」は茅(かや)や菅(すげ)を編んだもの。 「衣手(ころもで)」は「袖」のことです。
秋の収穫時、稲田のそばに仮小屋を建てて番をする、
その小屋の中に、露がしずくとなって漏れ落ちてくるのです。
臨場感のある歌ですが、天皇が田んぼの番をするはずもなく、
古来さまざまな解釈が試みられてきました。
田園を想像して詠んだものだとか、
庶民の農作業のつらさを思いやって詠んだものであるとか、
上三句は序詞(じょことば)で、実際は恋の歌であるとか…。
最近では『万葉集』にある次の歌が
伝承の過程で変形したものと考えられているようです。
秋田刈る仮盧(かりほ)を作りわがをれば衣手さむく露ぞおきにける
(万葉集巻十よみ人知らず)
秋に田を刈るための仮小屋を作ってわたしがこもっていると
袖口には露がたまって寒いことだ
『後撰集』は大化改新から300年も後に成立しています。
書写や口伝の過程で混乱が生じることもあったでしょう。
姿なき三十六歌仙
第五番の猿丸大夫(さるまるたゆう)の一首も
『古今集』秋の部にあるよみ人知らずです。
奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき
(五猿丸大夫)
奥山に散り敷いた紅葉を踏み分
妻を恋う鹿の声を聞くとき秋は哀しいものと思う
これがなぜ猿丸の歌ということになったのか、理由は不明。
猿丸は奈良朝後期から平安朝初期に実在したといわれ、
三十六歌仙に選ばれるほどの歌人です。
しかし実体は何もわかっておらず、『猿丸大夫集』という歌集も
古いよみ人知らずを編集したもので、
猿丸の作品と確認できる歌はないといいます。
二荒山(ふたらさん)信仰にまつわる
猿麻呂(さるまろ)伝説との関連を指摘する人もいますが、
これも確証はないようです。
定家にしてみれば、猿丸の正体がどうであれ、
優れた歌だから選んだということなのでしょう。
また『猿丸大夫集』も
優れたよみ人知らずの歌が散逸するのを防ぐため、
猿丸の名を冠して編纂されたのだと考えることができそうです。
第十番の蝉丸(せみまる)は伝説上の人物。
しかも伝説が何種類もあって、
それぞれが勝手なことを言っています。
百人一首に選ばれた歌は『後撰集』雑部にあるもので、
「相坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるにゆきかふ人を見て」の
詞書(ことばがき)がついています。
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
(十蝉丸)
これがあの行く人も帰る人もここで別れ
知る人も知らぬ人もここで逢うという逢坂の関なのか
ほとんどの伝説で蝉丸は盲目とされているのに
「ゆきかふ人を見て」感慨にふけったことになっています。
詞書どおりなら、蝉丸は目が見えていたのです。
蝉丸の出自についても、
『今昔物語集』が伝えるところでは
宇多法皇の皇子敦実(あつざね)親王に仕える
雑色(ぞうしき)です。
しかし能(謡曲)『蝉丸』では
醍醐(だいご)天皇の皇子とされ、
ずいぶん身分が高くなっています。
皇子でありながら盲目ゆえに逢坂山に棄てられ、
琵琶を弾いて過ごしていると、姉宮が偶然そこに現われます。
姉宮は逆髪(さかがみ)と呼ばれ、
髪の毛が逆立つ病と心の病によって、
蝉丸と同じく棄てられていたのです。
流浪する盲目の琵琶法師たちの拠点が
逢坂山にあったのではないかという説もありますが、
学術的思考と関係なく、蝉丸という音楽と和歌のヒーローを産み出した
昔の人々のたくましい想像力/創造力には驚かされます。
無常の歌人、蝉丸
『今昔物語集』では逢坂の関の草庵に三年間通いつづけた
博雅三位(はくがのさんみ)に、
蝉丸が秘曲を伝授します。
説話中の和歌が、若干語句はちがいますが
『新古今集』『続古今集』に収められています。
秋風になびく浅茅のすゑごとに置く白露のあはれ世のなか
(新古今集雑歌下蝉丸)
秋風になびく浅茅の葉の末ごとに白露がついている
この世はその露のようにはかないものだ
世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてしなければ
(新古今集雑歌下蝉丸)
この世はどのみち同じこと
宮殿も藁(わら)の家もいずれ無くなるのだから
逢坂の関のあらしのはげしきにしひてぞゐたる夜をすぎむとて
(続古今集雑歌中蝉丸)
逢坂の関の嵐が激しいので
あえて動かずにいましたよ夜が過ぎるまで
『新古今』の二首は仏教的無常を主題にしています。
「これやこの」が仏教的に解釈され、後づけで作られたのでしょう。
一方で「これやこの」は民謡・俗謡だろうという推測もあり、
だとすると人生の空しさなんて詠ってないだろうということになります。
「さすが逢坂の関はいろんな人が大勢通るものだなぁ」
という軽い解釈でかまわないことに…。
どちらを採りましょうか。