『小倉百人一首』
あらかるた
【14】才女清少納言
不運な皇后定子に仕えて
清少納言が仕えていたのは藤原定子(ふじわらのていし)。
定子は内大臣藤原道隆(みちたか)の娘で、正暦元年(990年)に
一条天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)し、
その年のうちに中宮(ちゅうぐう=天皇夫人)となります。
しかし長徳元年(995年)には権勢を誇った道隆が亡くなり、
翌年には兄の伊周(これちか)と隆家が左遷されてしまう事態に。
後ろ楯を失った定子は出家しますが、
天皇の寵愛は変わらず、その後脩子(しゅうし)内親王と
敦康(あつやす)親王を生んでいます。
さらに長保元年(999年)に事態は急変します。
自分の娘の成長を待ちかねていた藤原道長(みちなが)が
長女の彰子(しょうし)を12歳で入内させたのです。
彰子が翌年に中宮となったため、定子は皇后となります。
前例のない二后併立(皇后が二人いる状態)です。
道長は道隆の弟ですから、后はいとこ同士で
帝の寵愛をめぐって争うことになりました。
ところが彰子が中宮になった年、
定子は次女を出産したその日に亡くなってしまいます。
24歳の若さでした。
三人の遺児は彰子に引き取られていきます。
清少納言が『枕草子』で定子を聡明な美女として讃えているのは、
かつてライバルだった彰子のもとで
遺児たちが冷遇されることのないよう、
願いを込めてのことだったとも考えられています。
女房は教育係
清少納言は父親が父清原元輔、
曽祖父が清原深養父(ふかやぶ三十六)という和歌の家系。
父親の友人や叔父にも漢学や和歌の達人が多く、
彼女も早熟な才能を発揮していたようです。
27歳のころ定子のもとに出仕すると、
中宮の信頼を得てしだいに頭角をあらわします。
『枕草子』にはこんな自慢話が書かれています。
現代語にしてみましょう。
雪がとても高く積もったのに、いつもとちがって御格子を下ろし
炭櫃(すびつ)に火を熾して世間話などして集まりお控えしていると、
「少納言よ、香爐峯の雪はどんなようすか」とおっしゃったので、
御格子を上げさせ御簾(みす)を高く上げたところ、お笑いになる。
ほかの女房たちも「そのことは知っていて歌などにさえ歌うけれど
思いつきもしなかったわ。清少納言はやはりこの宮にお仕えするのに
ふさわしい人ですね」と言った。
(枕草子二百九十九段)
香炉峰(こうろほう)の雪というのは、
白居易(はくきょい)の詩にある
「香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて看る」という一節を指します。
定子は「御簾を上げよ」という代わりに香炉峰の雪を持ち出したのです。
清少納言は定子に請われて
漢詩を進講(目上の人に教えること)していたので、
すぐに意を汲むことができたのです。
このように女房たちは単なる身のまわりの世話係ではなくて、
皇后、中宮の教育係でもありました。
しかし定子は清少納言がほんの数日里帰りしただけで
寂しがって手紙を送ったりしており、
主従というより友人のような関係だったのかも知れません。
才女の戯れ
百人一首にある清少納言の歌も
漢籍の素養が活かされたものです。
この一首を贈った相手は藤原行成(ふじわらのゆきなり)。
小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)と並び、
三蹟(さんせき)と呼ばれる書の名手です。
夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
(六十二清少納言)
夜の明けないうちに鶏の鳴き声をまねてだましても
決して逢坂の関はあなたを通しませんよ
清少納言が行成と物語をしていた夜、
帝の物忌(ものいみ)があるからと、行成は途中で帰ってしまいます。
翌朝、行成から「昨夜は鶏の声にせきたてられてしまって」
という言い訳のような手紙がきます。
そこで清少納言は『史記』の故事を踏まえ、
「夜更けの鶏の声とは函谷関(かんこくかん)のことかしら」と返します。
行成がまた「逢坂の関ですよ」と言ってきたので、
上記の「夜をこめて」の歌を贈ったというのです。
『史記』の故事というのは、
秦(しん)に捕らえられていた孟嘗君(もうしょうくん)が
従者に鶏の鳴きまねをさせ、
関門を開かせて脱出に成功したというもの。
行成はそれに対して恋の歌にも使われる歌枕
「逢坂の関」を持ち出してくるわけですが、
清少納言はそれを「ゆるさじ」とピシャリ。
けんかをしているわけではありません。
行成と清少納言は親しくつき合っており、
歌を贈り合ったり世間話をしたり、波長の合う友だちでした。
冗談の言い合いはいつものことだったでしょう。
気弱な才女
才気煥発で勝ち気な印象のある清少納言。
しかし意外に気弱なところも見せています。
『枕草子』にも書いてありますが、
父親が歌人としてあまりにも有名なため和歌を詠みたがらず、
内大臣だった伊周に、元輔の後継者なのになぜ詠まないのかと
詠歌を迫られたりしています。(九十九段)
遺された和歌も50首ちょっとしかありません。
出仕してまもなくは
「もののはづかしきことの数知らず涙も落ちぬべければ」などと、
かなり気後れしていたようすがうかがえます。(百八十四段)
やがて清少納言の才能が広く知れわたると
男女を問わず交友関係も広がっていきます。
そのせいで道長陣営に通じているらしいという
うわさが流れたことがあるのですが、
そのときも清少納言は弁明しようともせず
しばらく里にこもってしまいました。
皇后定子の亡くなったあとも、
次の就職先を探そうとしなかったようです。
退出後しばらくは赤染衛門、和泉式部ら
彰子付の女房たちとも手紙のやりとりをしていましたが、
晩年のようすはわかっていません。
藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚して
摂津の国に数年間住んでいたのは確かなようです。
その後は父藤原元輔の山荘の近くに侘び住まいしたとか、
最晩年は愛宕山にある棟世の月輪山荘に隠棲したとか、
尼になって兄の家に住んでいたという話もあり、
いつ亡くなったのかも不明なのです。
そんなこともあってか、
老婆となって各地をさまようという「清女伝説」が生まれ、
あちらこちらに「清少納言の墓」があるということに…。
小野小町伝説を思わせるような話ですね。