読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【17】夢で逢えたら


夢のかよひぢ

好きな人が夢に出てきたら、うれしいですよね。
昔は夢に好きな人が現われると、
相手が自分を好きなのだと考えました。
(勝手な気もしますが…)

ということは、夢に出てこなくなると
心変わりしたんじゃないかと不安になってしまうわけで…。

住の江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人めよくらむ
(十八藤原敏行朝臣)

住の江の岸に寄る波は夜も昼も同じなのに
あなたは人目を避けて夢にさえ出てきてくれないのでしょうか

上二句が序詞(じょことば)です。「寄る」と「夜」が響きあい、
住吉の海辺が松の名所であることから「待つ」を暗示するという、
なかなか技巧的な歌です。

夢の通い路(通り道)とはなんともロマンチックな発想。
短く夢路(ゆめじ)ということもありますが、
これは藤原敏行のオリジナルではなくて、
当時一般に夢の中に道があると考えられていたのです。

『新千載集』にこんな歌があります。

ぬるがうちにせめては見えよ関守のありともきかぬ夢のかよひぢ
(新千載集恋左近中将善成)

寝ているうちにせめて姿を見せてくださいな
夢の通い路に関守がいるとは聞いたことがありませんもの

恋人が夢に現われるのは、
恋人の魂が夢の中の道を通って自分のところにやってくるから。
だれも邪魔しない道なのだから、逢いにきて欲しい。

こふれども逢ふ夜のなきはわすれ草ゆめぢにさへやおひ繁るらむ
(古今集恋よみ人知らず)

思い慕っても逢える夜がないのは
恋人を忘れるという忘れ草が夢の路にさえ生い茂っているからでしょう

忘れ草は萱草(かんぞう)の別名だそうで、
悲しいことや恋人のことを忘れたいとき、
下着のひもにつけたり垣根に植えたりしたといいます。


夢だけが頼り

再び藤原敏行の歌を。

恋わびてうちぬる中に行かよふ夢のたゞぢはうつゝならなむ
(古今集恋藤原敏行朝臣)

恋に悩んでまどろみながら行き来した
夢の中のまっすぐな道が現実であったらよいが

「たゞぢ」は「直路」と書くのでしょう。
あの人の夢の中へまっすぐ通じている道、ですね。

小野小町はこういう歌を遺しています。

うたゝねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
(古今集恋小野小町)

うたたねをしていて恋しい人の夢を見てから
夢というものに期待するようになったわ

たとえ夢でも、逢いたいときに逢えたら便利な気もしますが、
夢でしか逢えないのは、やはりつらいもの。
小町の歌の裏には逢えない日々が詠われているのです。


夢のはかなさ

夢はまた、はかないものの代名詞でもありました。
百人一首には周防内侍(すおうのないし)のこの歌があります。

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそをしけれ
(六十七周防内侍)

短い春の夜の夢にすぎない手枕(たまくら)のせいで
つまらない浮き名が立つことが残念です

ある春の夜、内侍が「枕もがな」とつぶやいたのを聞いた藤原忠家が、
御簾の下から腕を差し出し、「これを枕に」と戯れます。
その腕(かいな)に対して「甲斐なく」で返した機知に富む一首。

「春の夜の夢」は、春の夜が短いため、
はかなさのたとえとしてよく使われる言葉です。 

春の夜の夢の中にも思ひきやきみなきやどをゆきて見んとは
(後撰集 慶賀哀傷 太政大臣忠平)

春の夜の短い夢の中でも(ほんの一瞬でも)思いませんでした
あなたのいない家を訪れて見るなどとは

藤原忠平(ただひら)が兄の死に際して詠んだもの。
短い時間の代名詞としても、「春の夜の夢」は使われました。


この世は夢か

仏教の影響もあり、平安時代には
人生をつかのまの夢とする考えが広まっていました。

藤原敏行(前編参照)が亡くなったとき、
紀友則(きのとものり三十三)はこんな歌を敏行家に贈っています。

ねても見ゆねでも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢にはありける
(古今集哀傷紀友則)

寝てもあの方を夢に見ましたが寝なくても面影が見えました
およそ現世というものは夢なのでした

「うつせみの」は「世」にかかる枕詞です。
古形は「うつそみ」で、「この世」「現世」を意味しました。

夢とのみこの世のことのみゆるかなさむべきほどはいつとなけれど
(千載集雑歌権僧正永縁)

この世のことは夢としか思えないことだ
いつこの夢から覚めるかはわからないものの

永縁(ようえん)の無常の歌です。

百人一首歌人では赤染衛門(あかぞめえもん五十九)が
よく似た歌をのこしています。

夢や夢うつゝや夢とわかぬかないかなる世にか覚めむとすらむ
(新古今集釈教赤染衛門)

夢が夢なのか現(うつつ)が夢なのか分からないもの
それならどういう世に覚めようというのでしょう

宮廷貴族たちの生活は華やかに見えますが、
一生を安楽に過ごす人はまれでした。
人の世は変わりやすく、命もはかないもの、
人生が夢のようなものというのは、実感だったことでしょう。

現実を現実とどうして決めることができようか
夢の中でも夢を見ないということはないのだから

季通(すえみち)は管弦の名手として知られた人物。
だからということもないでしょうが、リズムよく響きも美しい一首です。
どんな境遇で詠まれた歌なのでしょう。