読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【21】恋文コンクール


年の差なんて

百人一首の祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)の歌、
何歳のときに詠んだものだと思いますか。

音に聞く高師の浜のあだなみはかけじや袖のぬれもこそすれ
(七十二祐子内親王家紀伊)

(有磯の海じゃないけれど)名高い高師の浜のあだ波のような
浮気なあなたにかかわりたくないわ涙で袖が濡れてしまいますから

男からの誘いをきっぱりはねつける内容。
このとき紀伊は70歳を超えていたといわれます。

実はこの歌、
藤原俊忠から贈られた次の歌への「返し」です。

人知れぬ思ひありそのはま風に波のよるこそいはまほしけれ
(俊忠中将)

有磯(ありそ)の浜を吹く風で波が寄るように
人知れず寄せるこの思いを伝えたいものです

紀伊は「有磯海(ありそのうみ)」の歌枕に対し、
「高師の浜(たかしのはま)」という歌枕で返し、
「あだ波」で浮気者を示し、「波」の縁語を連ねたうえに
「波をかけじ」と「こころをかけじ」を掛けるなど、
さすが大ベテランといったところです。

俊忠は当時29歳でした。
俊忠はおばあさんの紀伊に懸想して、
ふられてしまったのでしょうか。


高齢者の恋の歌会

康和四年(1102年)、清涼殿において
堀河院の主催で艶書合(えんしょあわせ)が行われました。
けそうぶみあわせ(懸想文合)ともいわれますが、
男女の歌人が和歌をラブレター形式で作るという趣向。

上記の俊忠と紀伊の贈答歌はこの艶書合で交わされたものです。
当然、おたがいに本気ではありません。

百人一首でおなじみの周防内侍(六十七)が
俊忠と組んだ贈答歌もあります。

人知れぬ袖ぞ露けきあふことのかれのみまさる山のした草
(周防内侍)

露が降りたように人知れず袖は濡れています
お逢いすることがなくなっていく(どんどん枯れていく)
山の木陰の草と同じですわ

「かれ」は「枯れ」と「離れ」を掛けています。
間遠(まどお)になっていく恋人への恨みという設定ですね。

かへし

奥山のしたかげ草はかれやする軒ばにのみはおのれなりつつ
(中将俊忠)

奥山の木陰の草は枯れるでしょう
軒端にだけはしのぶ草がおのずから茂っていますよ

通常の歌合(うたあわせ)とちがって
勝敗は決めなかったそうですが、
若い俊忠はどうも分が悪いですね。

ちなみに周防内侍は当時50歳以上、
大納言公實(藤原公実)は49歳で参加しています。
当時の平均寿命からすると、大半が高齢者だったようです。


恋歌ばかりの歌合

ラブレター形式ではありませんが、
恋の歌ばかりで競われたのが
建仁2年(1202年)の水無瀬恋十五首歌合。

後鳥羽院(九十九)が水無瀬(みなせ)の離宮に
九人の歌人を集め、みずからを含めて十人で
それぞれ十五首を作っています。

百人一首歌人では後鳥羽院のほか藤原良経(九十一)
藤原雅経(九十四)、慈円(九十五)、定家(九十七)
藤原家隆(九十八)という六人が参加しました。
当時の有力歌人たちが揃っていたことになります。

題は15種類ありますが、なかなかの秀歌ぞろい。

まず旅の途中がテーマの恋歌
「羇中恋(きちゅうのこひ)」を見てみましょう。

草枕結びさだめむかた知らずならはぬ野辺の夢のかよひ路
(藤原雅経)

夢であなたに逢おうにも不慣れな野辺の仮寝ゆえ
草枕の結び方がわかりません

草を結んで枕を作るとき、
作り方によって見る夢が変わると信じられていたようです。
夢路を通ってあなたに逢いに行くには
どういう結び方がよいのだろうというのです。

次は「関路恋(せきぢのこひ)」

我が恋やこのよを関と鈴鹿川すずろに袖のかくはしをれし
(藤原良経)

わたしの恋はこの世を関所として
鈴鹿川に濡れるようにむやみに袖がしおれてしまった

関はふたりの仲を隔てるものとしてよく詠われます。
「鈴鹿川」は歌枕。鈴鹿の関は廃止されて400年以上経っていましたが、
歌枕なのでそんなこと関係なし。

寄雨恋(あめによするこひ)」もあります。

ふりにけり時雨は袖に秋かけていひしばかりを待つとせしまに
(俊成卿女)

時は経ち涙は時雨のように袖に降っているわ
秋になったらと約束した言葉ばかりを信じて待っていたのに

俊成卿女(としなりきょうのむすめ)は藤原俊成の孫。
事情があって俊成の養女となり、
30歳のころ、後鳥羽院の御所に女房として出仕しました。
出仕直後のこの歌一首をとっても
彼女が優れた歌人だったことがわかります。


大僧正の恋歌

ここで慈円の歌を。
慈円は百人一首にこの歌が撰ばれていますね。

おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣(そま)に墨染めの袖
(九十五前大僧正慈円)

畏れ多いことに仏法の師として俗世の民に被いかけることよ
比叡山に住んでいるわたしの墨染めの袖を

僧としての決意を詠んでいるのですが、
百人一首の中では異質な気がしてなりません。

慈円は実は、恋の歌の名手でした。
水無瀬恋十五首歌合ではこのような恋歌を詠んでいます。

恋もせでながめましかばいかならん花の梢におぼろ月夜を
(慈円)

恋もしないで眺めたのならばどのように見えるだろうか
花咲く梢(こずえ)に朧月のかかるこの夜を

題は「春恋」。恋する心を間接的に詠っています。
それでも十分感傷的なのが、慈円のうまさでしょう。

いたづらに千鳥鳴くなる河風に思ひかねても行くかたぞなき
(慈円)

千鳥がむなしく鳴いているその声が川風にのって聞こえてくるが
恋しさに耐えかねてもわたしには行くところもない

千鳥の鳴き声は恋しい相手を呼ぶ声とされていました。
だからこう見えても(?)恋の歌なのです。

繊細で技巧的な歌の多かった平安末期にあって、
慈円は小細工の少ない堂々とした歌をたくさん遺しました。