『小倉百人一首』
あらかるた
【22】知られざる百人一首
百人一首はいくつある?
ふつう百人一首といえば『小倉百人一首』のこと。
しかしヒット商品には類似品やコピー商品が出回るもの。
百人一首も例外ではありませんでした。
おびただしい数(←要するに実数不明)の百人一首が作られましたが、
うーん、なるほどというものから
首をかしげたくなる駄作まで玉石混淆。
これらはまとめて「異種百人一首」と呼ばれます。
面白そうなものをいくつか見ていきましょう。
室町時代の百人一首
◆新百人一首(1483)
室町幕府九代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)が
定家の『小倉百人一首』に入らなかった100人を撰んだもの。
文武天皇に始まり花園院に終わるなど、
配列も定家を意識したものになっています。
義尚は少年時代から歌会を催すほど和歌に熱心で、
『新百人一首』は18歳のころに選定しています。
わずか25歳で亡くなったその原因が
酒色に溺れたためというのにあきれますが、
撰ばれた百首は優れたセンスを感じさせるものです。
山田もるそほづの身こそかなしけれ秋はてぬればとふひともなし
(十五玄賓僧都)
山の田を守る案山子(かかし)の身は哀しいものだ
秋が終わってしまえば訪れる人もいない
玄賓(げんぴん)は桓武(かんむ)天皇の
病気平癒(へいゆ)を祈願したことで知られる高僧です。
そほづ(かかし)にかこつけて隠棲の身の孤独を詠っています。
こよひきみいかなる里の月を見てみやこにたれをおもひ出らん
(三十七馬内侍)
今宵あなたはどんな里で月を見て
都のだれを思い出しているのでしょう
馬内侍(うまのないし)は『小倉』に採られなかったのが
不思議なくらいの有名歌人。清少納言と同じく、
一条天皇の皇后定子(ていし)に仕えていました。
秋の夜の月にこころのあくがれて雲ゐにものを思ふころかな
(三十九花山院)
秋の夜の月へ心がうばわれて
雲の上(宮中)にいて物思いに耽るこの頃だ
花山院(かざんのいん)は冷泉天皇の第一皇子。
藤原家に欺かれ、2年足らずで天皇の座を明け渡して出家します。
乱心だったともいわれますが、晩年は熱心に仏道に励んでいました。
ちなみに平成20年に破壊されてニュースになった
熊野古道のシンボル「牛馬童子」は、
花山院の少年時代の姿を模していると伝えられています。
しきみつむ山路の露にぬれにけりあかつき起の墨染の袖
(七十三小侍従)
仏前に供える樒(しきみ)を摘んでいると露に濡れてしまった
夜明け前に起きてきたわたしの墨染の袖が
小侍従は待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)とも呼ばれ、
従妹にあたる殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ九十)と並んで
平安末期を代表する歌人でした。
60歳くらいで出家しているので、それ以後の作でしょう。
墨染(すみぞめ)は僧衣をあらわします。
江戸時代の百人一首
◆武家百人一首(1630以前)
鎌倉・室町期の武人たちの和歌を集めたもの。
平経盛(つねもり)や忠度(ただのり)、
頼朝や義経、実朝といった初期武家社会の有名人たちを含み、
足利十一代将軍義澄までを収めています。
散る花の雪とつもらば尋ねこししをりをさへやまたたどらまし
(四十八源頼隆)
散る花が雪のように積もるから
来るまでに目印に折った枝をまたたどっていこう
「しをり」は「枝折」と書いて、
迷わないように木の枝を折って目印にすること。
武家だから勇ましい歌ばかりかと思うとさにあらず、
このような風流そのものの歌がたくさんあります。
『武家百人一首』は評判を呼び、以後『新撰武家百人一首』や
『英雄百人一首』『勇猛百人一首』などが
相次いで作られることになります。
◆源氏百人一首(1839)
黒澤翁満(おきなまろ)による
『源氏物語』の登場人物123人の和歌を採録したアンソロジー。
歌仙絵のように登場人物の姿に歌が組み合わせられていて、
さらに歌の解説、人物紹介もつくという構成です。
おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
(若紫 北山尼)
どこでどのように育っていくのかもわからない若草を残しては
死ぬにも死ねない思いです
若紫の行く末を案じる北山の尼君の歌ですね。
◆烈女百人一首(1847)
緑亭川柳撰。わが国の貞女烈婦のうち
和歌に優れた100人を選んだと称するもので、
人物挿絵は葛飾北斎というぜいたくな一冊。
これとても仮初ならぬ別れてはかたみとも見よ水ぐきの跡
(六十一休禅師の母)
この手紙もその場限りのものと思いなさるな
別れた後には筆の跡をわたしの形見と思いなさい
作者はあの一休さんの母親です。
息子に修行の大切さを説いた遺書の最後に
この歌が書かれています。
明治以降の百人一首
明治維新後も百人一首は作られつづけました。
幕末の志士たちの作品を中心とする『義烈回天百人一首』、
『小倉』をパロディ化した『育児百人一首』などが知られています。
◆愛国百人一首(1942)
第二次大戦が始まると、
軟弱な『小倉』は好ましくないというので
愛国心を高める百人一首が作られました。
大君(おほきみ)の御楯となりて捨つる身と思へば軽き我が命かな
(九十二津田愛之助)
天皇を守る楯(たて)となって捨てるわが身と思えば
自分のいのちなど軽いものであることよ
作者は幕末の武士。
萩藩の忠勇隊に参加して18歳で亡くなっています。
日本の風土や家族愛を讃えた歌もありますが、
このような死をいとわない勇気を詠った作品が目立ちます。
◆鎌倉百人一首(2006)
最後に気分を変えて、
平成18年に発表された『鎌倉百人一首』からひとつ。
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
(五十五与謝野晶子)
釈迦牟尼は「しゃかむに」と読みます。
大仏さまを「美男」と言ってしまう自由さ、大胆さ。
与謝野晶子の代表作のひとつです。