続『小倉百人一首』
あらかるた
【167】遠島歌合
隠岐と都を結んで
リモートワーク、リモート会議がめずらしくない昨今ですが、
八百年ほど昔の鎌倉時代、リモートで歌合が催されていました。
承久の乱に敗れて隠岐に流された後鳥羽院(九十九)が、
乱から十五年を経た嘉禎(かてい)二年、
自身と都の歌人たち総勢十六人の歌合を行ったのです。
これは《遠島歌合(えんとううたあわせ)》と呼ばれるもの。
歌人たちに十種の題を送って歌を隠岐に送らせ編纂、
院が判者を務め、判詞も院が書いています。
院の述懐するところによれば、
桑門(そうもん=出家者)となった今、
修行に明け暮れて歌から遠ざかり十数年を経てしまった。
今さらとは思うが、命あるうちに家隆を召して
ふたたび「思ひ思ひの詞(ことば)をあらそひ、
しなじなのすがたをたくらべむ(=比べよう)」と
思い立ったのでした。
院はまた「ちかき世の人々の歌の中にも
十余年の間のは一首もきゝおよばざれば」と
長い空白を嘆き、すでに老耄(ろうもう=老いぼれ)の身で
判断に自信がないとも述べています。
院はこのとき五十七歳でした。
院が名を挙げた藤原家隆(九十八)は定家(九十七)とともに
かつての後鳥羽院歌壇の中心人物であり、ことに家隆は
流刑地に去った院への音信を絶やすことがありませんでした。
会うことはかなわなくとも、院にとっては
心の支えだったことでしょう。
遠島に馳せる思い
この歌合には十種の題が出されていましたが、
家隆は「夜鹿(よるのしか)」の題で
このような歌を院に送っています。
天の河秋の一夜の契りだに 交野に鹿の音をや鳴くらむ
(遠島歌合 夜鹿 家隆)
天の川の秋の一夜の逢瀬でさえ難い(=難しい)というので
交野(かたの)で鹿が声を上げて鳴いているのでしょう
判詞によると、後鳥羽院はこの歌から在原業平(十七)の記した
惟喬親王(これたかのみこ)の狩りを思い出したそうです。
交野で狩りをしたのち天之川(←実在する川)のほとりで
親王一行は宴会を開いたのですが、
その際に業平が詠んだのがこの歌。
狩りくらしたなばたつめに宿からむ 天の河原に我は来にけり
(伊勢物語 八十二段 在原業平)
狩りをして日が暮れたから棚機つ女(=織女)に宿を借りよう、
せっかく天の川に来たのだからと、
いかにも宴席らしいお気楽な詠みっぷりです。
しかし家隆は織女と牽牛は年に一度さえ
会えないかもしれないと詠みました。そして
わたしは院にお会いできない悲しみに声を上げて泣いていますと。
院は業平の歌をなつかしく思い出したと書いていますが、
家隆が歌に込めた思いも伝わったことでしょう。
