読み物

ちょっと差がつく
『百人一首講座』

【2001年5月20日配信】[No.025]

【今回の歌】
藤原興風(34番) 『古今集』雑上・909

(たれ)をかも しる人にせむ 高砂の
松もむかしの 友ならなくに

若い人の引きこもり、などが問題になっていますが、最近はインターネットなどでのメールのやりとりやBBSでの会話が一般化してしまって、直接会って話をするコミュニケーションがどこでも不足しているようです。若いころはそれで満足できても年をとってから大切なのは気の置けない友人かもしれません。
しかし、年老いてくるとそうした友人たちもだんだん死別して少なくなってきます。この歌はそうした老いの孤独を詠んだ一首です。



現代語訳

誰をいったい、親しい友人としようか。(長寿で有名な)高砂の松も、昔からの友人ではないのに。


ことば

【誰をかも】
次の「せむ」に掛かる連用修飾語で「誰をまあ、いったい……だろうか」というような意味です。「か」は疑問の係助詞で「も」は感情を込めて意味を強める係助詞です。
【しる人にせむ】
「親しい友達としよう」という意味です。「しる人」は自分をよく分かってくれる人のことです。「に」は動作の結果を表す格助詞で、「む」は意思を表す助動詞です。
【高砂の松】
高砂は播磨国加古郡高砂(現在の兵庫県高砂市南部)の浜辺で松の名所です。
【むかしのともならなくに】
「昔からの友達ではないのに」という意味です。松は感情を持たない植物だから、昔からの友人ではないというような意味を含んでいます。「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形で「~である」の意味、「な」は打消の助動詞「ず」の未然形で、「く」は「な」を体言化して、「なく」で「…ないこと」という意味になります。「に」は接続助詞で「…のに」の意味です。

作者

藤原興風(ふじわらのおきかぜ。9~10世紀の人)

藤原道成の子供で「古今集」選者の紀貫之らと同時代の人です。
下総権大掾(しもうさのごんだいじょう)になり、従五位下の位を授けられました。三十六歌仙の一人で、勅撰和歌集に38首入集している他、家集として「興風集」があります。管絃にも優れた能力を持っていました。


鑑賞

超高齢化社会と言われてもう久しくなります。いろいろと便利になった今でさえ老いてからの一人暮らしは寂しいというのに、昔はさぞや孤独感がつのったことでしょう。
長生きは理想と言えますが、年老いるにつれて長年の友人が一人また一人といなくなっていき、ついには一人残されてしまった老いの悲しみを詠んだ歌です。

もう心を許せる友達は誰もいなくなってしまった。いったい誰を友達と呼べばいいんだろうか、長寿だが心を持たない高砂の浜辺の松に心を寄せてみても、しょせんはむなしいことなのに。
ここには一緒に語る人もなくよるべないやるせなさ、寂しさが強く感じられます。高砂の浜辺に広がる松と浜風の潮の匂いのイメージが、いっそう寂寥感をつのらせます。
作者が孤独のあまりいつも悲嘆にくれていた、というわけではないでしょうが、老境を迎えて淡々と日常を送るうち、親しい友人の訃報にでも接したのでしょうか。

現在の高砂市へは、JR・新幹線姫路駅から山陽電鉄に乗り換え、高砂駅で下車すれば到着します。白い砂浜と青松が美しい高砂海浜公園をはじめ、石の宝殿のある「生石神社」、7世紀に建立された「荒井神社」、重文指定の仏画がある「十輪寺」など、古くからの名所だけあって観光スポットが数多くあります。
中でも「高砂神社」には、建立当時から生え始めたといわれる、「相生(あいおい)の松」があることで有名です。この松は根がひとつで幹が2つに分かれていることから、夫婦の情を示す霊松として神木として崇められています。
見所の多い都市ですので、ぜひ一度訪れてみたい場所です。